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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ

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はい、どうも。
誰も見ていなくても更新する、これがこのブログのモットーなので本日も更新だ!!!

このブログの本来の趣旨に戻りつつあります。


さて、本日もまた歴史のはなしを。


タイトルは

「陸軍三長官のはなし」

です。


それでは、いきましょう!




陸軍三長官というのは旧日本陸軍の最高幹部の3つの役職のことを指す。

具体的に言うと、

・陸軍大臣
・参謀総長
・教育総監

の3つの役職である。



Wikipedia先輩は、やはり簡潔にまとめられてて良い。いつものごとく拝借したい。




大正初期から、将官人事はこの三長官が合意とすることが慣例となった。清浦内閣の陸相人事をめぐって揉めた際、「三長官合意」を論拠として宇垣一成が陸相となった。それはその後も慣例として続き、陸軍の幹部人事について三長官が会議を開くことが陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定で明文化された。軍部大臣現役武官制が復活した際は、この三長官合意を盾に、陸相を推挙しないなどの行動によって、組閣断念や倒閣となることがあった。

ただし、三長官会議の決定は、外部からの影響を一切受け付けないものでもなく、決定した後に覆して別の決定ができないものでもなかった。阿部内閣の組閣時に一時は多田駿を後継の陸相に決定した陸軍三長官会議の合意が、昭和天皇が、畑俊六または梅津美治郎のどちらかからの指名を希望されたことにより、再考の上で畑俊六を後継陸相とすることを三長官会議で再合意とした。また、第1次近衛内閣において杉山陸相から板垣陸相へ更迭が行われた例でも陸軍三長官会議に先だって近衛首相の主導で内閣・宮中からの工作が行われ、三長官が追認することとなった。

また、三長官本人の異動に当たっても三長官合意が必要とされたため、1935年の真崎甚三郎教育総監の更迭時のように、更迭を望む陸軍大臣と更迭を拒否する教育総監が三長官会議の席で激論になることもあった(この時は参謀総長の閑院宮載仁親王が「お前は陸軍大臣の事務の遂行を妨害するのか」と林銑十郎陸軍大臣側に立って発言したため更迭が実現している)。

戦後、三長官合意は絶対的なものでなくなった。東久邇宮内閣発足に当たって、三長官会議では土肥原賢二が陸相に推挙されたが、東久邇宮首相は同期の下村定を陸相とした。

(Wikipediaより引用)




要するに、この陸軍三長官の会議の決定により軍部内の重要事項を決定することが慣例とされていた。

上記にも書かれているが、この陸軍三長官会議と軍部大臣現役武官制のタッグで組閣を阻止したり、倒閣したりと何度もこの絶対的権力で歴史を動かしてきた。



では、詳しくこの三長官の役職はどのような職務なのか見ていこう。




【陸軍大臣】
陸軍省のトップのことで、おもに「軍政」を司っていた。陸軍の維持管理などを行う最高責任者である。
大将、中将が任命された。

【参謀総長】
天皇直隷の組織であった参謀本部の最高責任者。軍隊の指揮、戦争の作戦の指導を行い「軍令」を司っていた。
元帥、大将がこのポジションに着くことが通常であった。

【教育総監】
天皇直隷の教育総監部の最高責任者。将兵の「教育」を司っていた。
主に大将、中将がつとめた。


まぁ、簡単に言うとこのような感じである。


よく、「結局、この中で1番偉いのは誰なの?」という質問があるが、この三長官は同格とされておりだれが格上とかは無かった。


しかし、やはり天皇直隷で軍の指揮をつかさどり、予算の決定も可能であった「参謀総長」の実権は非常に強かったとされる。
また、参謀総長は元帥または大将しかなれなかったこともあり、矢張り格上感が否めない。




この陸軍三長官のポスト全てに就任したのは歴史上で2人しかいない。
それは、「上原勇作」と「杉山元」である。

上原勇作は日本史の教科書にもでてきたので有名であるが、杉山元は一般的な人ならあまり知らないか。
杉山元といえば、「杉山メモ」で有名かもしれない。参謀総長時代の会議をメモしたものが終戦時に残っており軍上層部や政府の動向などが良く分かる資料として現代でも書籍化などされ公開されている。
書店に行けば「杉山メモ」が置いてあるかと思うので是非見てみることをオススメする。





因みに海軍でも三長官は存在した。

・海軍大臣
・軍令部総長
・連合艦隊司令長官

の3つの役職であった。

しかし、海軍三長官は陸軍のように絶対的な権威は無く、三長官会議で重要事項が決まってしまうことはなかったようである。





さて、どうであろうか。
なんか、“三長官会議”という響きがかっこよくないか。

いくら名前がカッコよかろうが、陸軍三長官の決定により多くの歴史が動いてきたことは明白で結果として、日本は悲惨な運命を辿ってしまった。


こういった、軍上層部のことを研究することで、日本の敗戦の原因を追究する1つの切り口であると思う。

個人的にこういったことから、「戦争」というものを研究していきたいと考える。


みなさんも、一緒に研究しよう。








ということで終わります。

陸軍三長官って意外にも2人しか全ポジションやってないんですね。
山ほど有名な軍人がいる中でこの微妙な2人という、、、

教育総監になるのが珍しいのかな?それとも参謀総長が難しいのかな?


何にせよ3つやっているのは凄い。
トリプルクラウンですね。



ということで本日は終了。


おやすみなさい。

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どうも、みなさんこんばんわ〜。
本日も更新します!

昨日は帰ってきてから爆睡してしまってかけませんでした。
そういう時もありますね、人間だもの。

さて、7月に入って少したちひしひしと暑くなってきました。新潟でもこんなに暑いのですから都市部ではもっと暑いのですかね。ゾッとします。



さて、本日は「鯱のはなし」です。
それではいきます。




城の天守を見ると必ずあるのが「鯱」。
因みに「鯱」一文字でシャチホコと読む。勿論、シャチとも読む。

天守が復元されていたり、現存している城には大体この鯱が天守にのっているのではないだろうか。
例えば、一番有名な名古屋城の金鯱をはじめ大阪城、姫路城、高知城、熊本城・・・
などなど、国内でも数々の鯱を見ることができる。


あの鯱という生き物は「海のギャング」の、異名をもつあの「シャチ」とは実は別の生き物ということは知っていたであろうか?
(あのイルカとクジラの中間のような海洋生物)

あまり気にしたことはないかもしれないが、天守の鯱と海の鯱とは全く別物。

天守で悠然と泳いでいるあの「鯱」はなんと、想像上の生物である。

顔に注目して見ると、あれ?なんかあのシャチじゃないな? と感じると思う。
天守の鯱は姿こそ魚のフォルムなのだが、頭は虎なのだ。


虎に見えないけど虎なのだ。言われてみれば確かに虎っぽくもあるが・・・。


では、なぜそのような想像上の生き物が天守にのっているのだろうか。

それは、鯱が水を吹く魚という伝説に由来している。
つまり、城の火除け、そして防災のおまじないのようなものであったのだ。

建物の正面に向かって、右がオス、左がメスと決まっていてよく見るとオスの方が若干大きく作られているのだという。
そして、オスは口を開け、メスは口を閉じている。(つまりは阿吽!)


イメージとして沖縄のシーサーや神社の狛犬とほとんど同じ。
設置している意味合いも魔除けや守り神的なものなので、「天空の狛犬」だと考えて欲しい。




一番有名な名古屋城の鯱は金ピカの金鯱だが、一般的には瓦か石、それか銅製で作られている。

名古屋城の鯱が金の理由は1607年に徳川家康が九男・徳川義直を尾張六十二万石に封じ、諸大名に命じて名古屋城の築城工事(天下普請)をさせたときに

①徳川家の威光を天下に示す為

②普請させる外様大名にさらに資金を使わせる為

の2つの理由があるとされる。



さすが、策士・家康。
抜かりないアイデアをする。

このようにして、名古屋城の鯱は金色になったのであった。

今後、名古屋城も現在の鉄筋コンクリート造で復元されたものから、木造への修復の工事が計画されているが(鉄筋コンクリートが壊されるのは個人的に非常に悲しいものがありますが)、木造で復元された暁には当時のままの名古屋城に当時のような「金鯱」がのるのを見て見たいものである。


ぜひ、その際には家康も見たその名古屋城を目に焼き付けてはどうだろうか?
(そのときには本丸御殿も行こう!)






どうでしたか?鯱のことがよくわかりましたか?
鯱は怖い顔もしてるように見えますが、よく見ると可愛いですよね。
もっと、キュートに作れば人気が出そうですね。


私も将来家を建てることができれば鯱を屋根に付けたい!と思います!
その為に明日からも頑張って働きます。


そんな、鯱の話でした。

それではまた。


good night!



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どうも、みなさん、こんばんわに(ガォ〜)!
本日も元気に更新です。
本日は新潟は土砂降り、しかも丁度出社、退社のタイミングでものすごく降られてしまい散々な日でした。
みなさんはいかがだったでしょうか。


さて、そんな本日ですが題して

「公卿・公家のはなし」 です。
それではいきましょう。




公卿・公家というとみなさんはどのような人物を思い浮かべるだろうか。
時代劇に出てくる麻呂のような人物や、アニメおじゃる丸の主人公・おじゃる丸みたいなものを想像する方が多いかと思われる。

勿論、そのイメージはほとんど正解なのだが、では実際に公卿とか公家って具体的になんなの?とお思いだろう。

なので、今回は少しこの公卿や公家にクローズアップして深掘りしてみようと思う。




く‐ぎょう〔‐ギヤウ〕【▽公×卿】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 公 (こう) と卿 (けい) の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。「大臣公卿」と連ねていう場合は、卿のこと。公家。上達部 (かんだちめ) 。月卿 (げっけい) 。卿相 (けいしょう) 。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/60812/meaning/m0u/より引用)

これが、公卿の説明。


く‐げ【▽公家】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 朝廷に仕える人々。公家衆。
2 朝廷。朝家。おおやけ。
3 天皇。主上。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/60892/meaning/m0u/より引用)

そしてこれが公家の説明。



この2つの言葉を並べただけでは分かりにくいと思うのでここから解説をする。



まず、【公家】であるが元々は天皇や国家などを意味する「公(おおやけ)」を意味するもので、それが次第に朝廷の上層の官人を指すようになった。

源氏や平氏のように武士が台頭するようになると【武家】に対するかたちとして【公家】という意味あいが強くなったとされる。


そして、【公卿】は【公家】の中でも官位の高い官人のことを指した。一般的に【公卿】は天皇直属である「太政官※」であり、国政の中心の存在であった。つまりは、【公家】は総称であり、その中に【公卿】と呼ばれる官人がいると考えていただきたい。


《※だいじょう‐かん〔ダイジヤウクワン〕【▽太政官】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 律令制で、神祇官 (じんぎかん) と並ぶ中央の最高行政機関。八省以下を統轄して政務を行った。長官は太政大臣で、これに次いで左右大臣があり、のちに内大臣が置かれた。事務局として少納言局・弁官局が付属した。おおいまつりごとのつかさ。》
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/133483/meaning/m0u/より引用)


因みに公卿は官職でいうと、「摂政」、「関白」、「太政大臣」、「左右大臣」、「内大臣」、「大納言」、「中納言」、「左右近衛大将」までが定められていた。官位でいうと、一位から三位(官位は九位まで)までが「公卿」と呼ばれていたのだ。

四位以下は「公卿」ではなく普通に「公家」と呼ばれていた。例外として、四位の「参議」のみはみなしで「公卿」として扱われていたようである。



少し整理してみると、

【公家】➡︎天皇に使える者(官位に関わらず全員)
【公卿】➡︎公家の中でも官位が三位以上の者及び参議の者

ということになる。



前述したように、【武家】に対しての【公家】であるから中世の武士たちは官位を貰っても【公家】という呼ばれ方はしないのが一般的である。


また、公家と似たような言葉で【貴族】という言葉もあるが、いい機会なので少しこちらも見ていこう。


き‐ぞく【貴族】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 身分や家柄の尊い人。また、社会的な特権を世襲している上流階級に属する人。明治憲法では華族といったが、第二次大戦後消滅。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/52370/meaning/m0u/より引用)


これでは少し解りづらいか。
もっと具体的に言うと、【貴族】と呼ばれるには官位で五位以上を与えられたものを指す。
従って、「従五位下」までの官位を賜われた者は【貴族】と呼ばれたのである。

官位についてハテナ?の人がいらっしゃるかと思うが、簡単に言うとその人の社会的ランクであると認識をして欲しい。

この【貴族】は実は官位が五位以上であれば誰でも貴族と呼ばれるので「公家=貴族」ではない。
つまりは、武家でも貴族と呼ばれていたのだ。

武士で貴族というのはあまり想像がし難いと思うが、戦国時代や江戸時代には武士でも貴族が、たくさんいたのである。






関連して江戸時代に【公武合体】という政策を行うが、



こう‐ぶ【公武】 の意味
出典:デジタル大辞泉
公家 (くげ) と武家。また、朝廷と幕府。

こう‐ぶ【公武】の慣用句
こうぶがったい【公武合体】
江戸末期、朝廷と幕府とが一致して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。大老井伊直弼(いいなおすけ)の死後、老中安藤信正らが主張、和宮(かずのみや)降嫁が実現したが、のち、戊辰(ぼしん)戦争で討幕派に圧倒された。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/74878/meaning/m0u/より引用)


このように公家と武家を婚姻関係で結び、公武一帯で幕府を立て直しを図っていこうとしたことである。

この公武合体の意味を知ると明確に公家と武家で分かれていたのが分かるだろう。




と、色々と話も飛躍しすぎた感はあるが少しでも【公家】や【公卿】そして【武家】との違いがお分かりであろうか。

今回は特に意味なんて覚えなくて結構なので、これらの言葉はそれぞれ似ていても違う言葉なんだと、覚えていただければ幸いである。



個人的に私は「官位」について非常に関心があり(官位マニアです)、今回も官位の話が出たのでもっと話そうと思ったのだが今回はやめとこうと思う。これもまた別の機会に。







さてさて、本日は以上でございます。
似た言葉でも明確な違いがあるんですね〜。
これでみなさんも、日常で公家と公卿の使い分けができますね!
あ、そんな言葉使うことないか!
でも、現代でも「貴族」という言葉はよく使いますので街を歩いている時に「鳥貴族」の店舗を見かけた時には「あ、この鳥って貴族なんだ。官位は何位で官職はなんなんだろうか。弾正大弼くらいかな?」とか妄想して見てください。

え?そんな妄想しないって?
みなさんも官位の奥深さを学べばきっとそのような日が来ます。

是非この機会に官位・官職についても調べて見てください。
官位一覧表
このリンク貼っときますので見てみると面白いですよ。



それでは寝ます。

おやすみのむし(蓑虫)。


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どうもこんにちは。
昨日、東京裁判の話を記事にしたので
「あ〜、それならこの話も書かないとなぁ」
と思いまして、今回ブログを更新したいと考えてます。


タイトルは

「草むしりのはなし」 です。

この話は本当に鳥肌モノのいい話で、ハンカチ片手に読んで下さいね。
タイトルに騙されるな!これは歴史の話だ!




話は太平洋戦争直前のこと。
米内内閣でのお話。

1940年、阿部信行を首班とする内閣が瓦解、次の内閣は阿部内閣で陸相を務めていた「畑俊六」が首相になるのでは?と後継の首相を噂をされていた。

当時は第二次世界大戦が、勃発しナチス・ドイツが怒涛の攻撃でポーランドを侵攻するなど日本国内でも日独伊三国同盟を結ぶべきである、という声が強くなっていた。


この情勢を憂慮した昭和天皇はここは陸軍の首相を選ぶのではなく、むしろ海軍から首相を推挙すべきだ、という考えのもと海軍の良識派として人望も厚い米内光政を推挙した。
米内内閣が組閣され、畑は首相ではないにしろ阿部内閣と同じく陸相に据えられた。


しかし、米内は親英米派。そして日独伊三国同盟反対論者であり、陸軍からは不評をかっていた。

少し前にも書いたように、次の内閣は畑俊六であると、思っていた陸軍はこれに猛反発。
米内内閣を倒閣させようという動きがすぐにでてくることとなる。

1940年の6月、いよいよナチス・ドイツがフランスを降伏に追い込む。これにより、陸軍はドイツ・イタリアとより接近したいという考えにより、米内内閣の倒閣を実行に移す。
翌月の7月4日、「陸軍の総意」として陸軍首脳部は畑に陸相の辞職を勧告し、畑は辞職をするのであった。

米内は後任の陸相を出してくれ、と陸軍に言うのだが陸軍はこれを拒否。
軍部大臣現役武官制という制度は耳にしたことがあると思うが、当時は現役の軍人でなければ陸海の軍部大臣を務められない制度だったので畑が辞め、陸軍が後任を出さなければ内閣は構成できずに総辞職をせざるを得なくなってしまった。


米内内閣はわずか半年で瓦解、日本を太平洋戦争へと突き進むことを止められたかもしれない最後の砦がここに崩壊したのであった。



この次の内閣は何を隠そう戦争の発端を作った第二次近衛文麿内閣なのであるが、米内内閣倒閣はまさに日本の重要な分岐点だったと言えるだろう。



数年後、終戦を迎えるとこの戦争の責任問題が問われることになった。
連合国は戦争犯罪人を裁くべく戦犯を起訴していった。

もれなく、畑俊六はA級戦犯に指定、起訴されることとなる。
もちろん、上記の経緯から畑の行動が親英米派の米内内閣倒閣の原因を作り、太平洋戦争の道筋を示したことは言うまでもない。


畑の裁判が始まり、証言台にはあの米内光政。
米内にとっては因縁の相手、生かすも殺すも米内の発言にかかっていた。

証言を求められた米内は


「えー、忘れました」

「うーん、しりません」


と、終始この調子でのらりくらりと裁判官からの質問を交わし、一切証言をしなかった。

米内は当時の畑の辞職は軍部の意見で仕方ないことだったと思い、畑を庇ったのだった。


裁判長のウェッブからは
「こんなに愚かな首相をみたことがない」と侮辱されても彼は何一つ発言をすることなかった。


結果、裁判にて判決が出された。畑の判決は「終身禁錮」。非常に重い責任があった畑は米内の擁護のおかげで絞首刑を免れたのである。



米内は1948年に肺炎のため68歳で逝去。激動の時代を生きた米内はその人生に終止符をうった。


時は流れ1960年。米内の死後12年が経っていた。
米内の故郷、盛岡にある盛岡八幡宮にて背広姿の米内の銅像が建てられその除幕式が執り行われた。
盛岡の英雄・米内の銅像の除幕式だけあって多くの人が式に参列した。




盛岡八幡宮 米内光政の像




除幕式の早朝、会場の盛岡八幡宮の境内を草むしりをする老人の姿があったという。
この老人こそ当時81歳の「畑俊六」その人なのであった。







なんだろう、この凄く出来たお話は・・・


これで一本映画作れますよ( ; ; )



時代に振り回されても自分の中にある大切なものだけは失わない、米内の出来た人間性。
そして、いつになっても恩を報いる畑の人情。


もう、感動の二文字しかそこにはないです。


畑俊六が黙々と草むしりをしている姿を想像したら泣けてきますね。


本日はこんな心温まるほっこりとしたお話をお伝えしました。



これぞ、現代の鶴の恩返しやで!!



それではまた。




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どうもお疲れ様でう。
本日もよろしくお願いしまう。
土曜日なので元気に更新いたします。


そんな本日ですが、何回連続で歴史系のはなしを書いてるのかわかりませんが本日もまさかの歴史系の話です。
あんまり歴史に興味がない方には申し訳ありません。
(といってもこのブログ見てるの1人しかいないから別にいいか・・・)

もっとブログファンが増えたらバリエーション豊富にやってきたいと思いますので今回は御容赦下さい。


さて、本日は「東京裁判のはなし」です。



1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた連合国が日本の戦犯を裁いた軍事裁判を「東京裁判」と呼ぶ。
正式には「極東国際軍事裁判」という。

いわゆる戦争犯罪人として、裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。


よく聞く「A級戦犯」と呼ばれる戦争犯罪人が主に裁かれた。


【関東軍関係 】
・板垣征四郎
・南次郎
・梅津美治郎
【特務機関 】
・土肥原賢二
【陸軍中央 】
・荒木貞夫
・松井石根
・畑俊六
・木村兵太郎
・武藤章
・佐藤賢了
・橋本欣五郎
【海軍中央 】
・永野修身
・嶋田繁太郎
・岡敬純
【総理大臣 】
・広田弘毅(外交官)
・平沼騏一郎(司法官僚)
・東條英機(陸軍)
・小磯国昭(陸軍)
【大蔵大臣 】
・賀屋興宣
【内大臣 】
・木戸幸一
【外務大臣 】
・松岡洋右
・重光葵
・東郷茂徳
【外交官 】
・大島浩(駐ドイツ大使)
・白鳥敏夫(駐イタリア大使)
【企画院総裁 】
・鈴木貞一
・星野直樹
【民間人 】
大川周明(思想家)


もう、錚々たるメンバー。特に軍関係者は太平洋戦争のオールスター的な人物が揃い踏みである。
また、軍関係者の一覧を見ると陸軍が多くを占めているのが分かる。やはり、それほど太平洋戦争は陸軍による暴走が目立ったということである。(海軍が有能揃いということもあるが)


ともかく、上記計28名がA級戦犯として起訴。このうち永野修身と松岡洋右が判決前に病死、唯一の民間人である大川周明が精神障害により不起訴となり結果として25名が判決を受けることとなった。


(因みに大川周明の精神障害は恐らく詐病で、馬鹿になったフリをして判決を免れたという伝説がある。
大川周明、東條英機を叩く
こちらのリンクを見ていただきたいのだが、大川周明が裁判中にも関わらず前の席にいた東條英機の頭を叩くのは余りにも有名である。)



この東京裁判、結局は勝者が敗者を裁く裁判としてこんな裁判有りなのか、という裁判であった。連合国が選定した裁判官が自由に裁けるのだからそれはもう裁判ではないだろうと、様々な問題点があったのだが、そこは勝者のいいなり。
判決として死刑をはじめ、終身刑、有期禁錮と25名全員が有罪判決を受けることとなった。


そうそう、この裁かれた方々は全員「A級戦犯」であるが定義を知っているだろうか。

戦犯いくつかに分類されており

A級⇨「平和に対する罪」
B級⇨「通例の戦争犯罪」
C級⇨「人道に対する罪」

という定義付けがされている。
従って、A級戦犯だからといって1番罪が重いということは無く、BC級と罪の重さは変わらない。
むしろ、BC級戦犯というのは捕虜の虐待や大量殺人の実行者、そしてそれの指揮者が指定されるのでありこちらの方が残虐であるとも言える。
BC級戦犯は約1000人もの犯罪人が死刑に処されたという事実も知っておくべきであろう。



話を戻すが、東京裁判では数々の問題点もあったのだがこうして多くの戦争犯罪人が重い判決を受けた。
しかしながら、裁判官の中にもやはりこの戦争に疑問を持つ裁判官もいた。
それが、インドから派遣されたパール判事。
判事の中では唯一の国際法の専門家であっり、裁判では平和に対する罪と人道に対する罪とが事後法にあたるとして全員無罪を主張した。

無罪を主張したことで日本では著名な方である。
しかしながら、当時の勝者の裁きの流れの中でこのような主張をするというのは非常に芯の強い、判事であったのだろうと思う。
今も日本ではパール判事の主張を賛美する声も多くあり、東京の靖国神社には「パール博士顕彰碑」が建てられ、その功績が讃えられている。



A級戦犯でも極刑に処されたのは以下の7人。
・土肥原賢二
・松井石根
・東条英機
・武藤章
・板垣征四郎
・広田弘毅
・木村兵太郎

7人中6人が軍人でしかもその6人全員が陸軍の軍人。そして唯一の文官で元総理大臣の広田弘毅が死刑となった。

個人的な見解だが、この中でも武藤章の極刑というのは何とも不可解なような気もする。一番の要因はフィリピンでの虐殺の指揮官だったことが挙げられているが、それならば何故A級戦犯として裁かれたのか。
そして、終戦時に現地で起訴されていない点においてもよく分からない。
階級もこの中では唯一の中将であるし、開戦時も軍務局長であったとはいえそこまで責任があるとも思えない。
武藤章の処置についてはいささか疑問ではある。



その他の人物は非常に戦中には重要なポジションにいた人物であるので、これについてはまぁ納得のところはある。

特に多くの人がA級戦犯といえば東條英機を思い浮かべるのではないだろうか。
東條英機も開戦してからの悪いタイミングで総理大臣になってしまって同情するところはあるが、やはり罪は重いだろう。


この7人の遺骨は現在、愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山にある「殉国七士廟」に祀られている。



東京裁判というのは非常に不明瞭な裁判であることは間違いなく、この裁判は正しいものかというとそうではないかもしれない。

ただ、多くの疑問が残るがやはり戦後の区切りやケジメとしてこの東京裁判というものは必要だったのだろうと思う。



こういった経験を過去にしていることこそが、今後の日本の未来に繋がるのではないか。過去の教訓を学んで、これまで以上によりよい日本を歩んでいってほしいものだ。

やっぱり平和が一番!!





ということで、今回の話は終わりです。
少しでも東京裁判について知っていただければ幸いです。

最後に東條英機の辞世の句を貼って寝ます。


「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」


「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」


「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」


「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」





それでは、また明日。

good night!

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やっほー☆
みんな、元気ー☆?

と、テンション上げぎみで始まっております。
昨日は、帰宅時間がめちゃくちゃ遅かったので更新できませんでした。
唯一の当ブログファンからお叱りを受けて反省。本日はしっかりと更新いたします。

今回も歴史関係の話です。
毎回毎回歴史の話で本当に申し訳ないのですが、こればっかりは我慢してください。
何かご要望があればお答えしていきたいと存じます。


さて 、本日は前回の「ミニ歴史!」で扱ったものと関連してしまうのですが
「本能寺の変のはなし」というテーマで執筆していきたいと思います。
お付き合い下さい。





今から435年前の今日、まさに歴史は動いた。
戦国時代、天下布武を掲げた英雄は家臣の謀叛によってこの世から去ることになった。
そう、まさに「本能寺の変」が1582年の6月21日におきた。

誰でも知っている、この本能寺の変によりほぼ天下を手中に収めていた織田信長は討ち死にし、嫡男・織田信忠も死んでしまうという悲しい顛末を迎える。


謀叛を起こしたのはご存知、明智光秀。
今現在も何故、光秀が謀叛を起こしたのかは謎に包まれている。


では、本能寺の変とは一体なんなのか、少し掘り下げたいと思う。



1582年当時、信長は甲州征伐も完了させ着々と天下取りへの道のりを進めていた。
北陸地方には柴田勝家、四国地方には三男・織田信孝と丹羽長秀、北信濃方面には森長可、上野からは滝川一益と、四方八方に攻め入っていた。

謀叛の張本人である明智光秀はというと、甲州征伐の戦勝祝いと駿河国加増のお礼で安土城に徳川家康が来ていた。
その接待役を信長から命じられたのが光秀であった。
家康をもてなしていた光秀だったが、中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉から備中高松城攻めの援軍が欲しいと頼まれ、急遽光秀を派遣することとなった。

信長も中国攻めの為に本能寺で準備していた。
すると、秀吉の援軍に行ったはずの光秀が途中で折り返し京都の本能寺に攻め入った。

信長の軍勢はわずか100人足らず。対する光秀の軍勢は1万の以上という圧倒的な戦力差である。
当初信長も槍を片手に奮闘するのだが、圧倒的な力の差を感じ自身で火をつけ自刃したのだ。

嫡男の信忠も信長同様、秀吉救援のため京都の妙心寺に滞在していたが、秀吉は謀叛の知らせを受け、二条新御所へ移動。そこで前線をするが自刃してしまうのであった。



これにより、光秀はその手に天下を納めたように見えたが、中国地方に遠征していた羽柴秀吉がその一方を聞き、神速で京へ戻って来たのだ(中国大返し)。

京へ戻った秀吉と光秀は山崎の戦いで死闘を繰り広げ、光秀は秀吉の軍勢に敗走。後に、山中にいたところを発見され殺されるのであった。


この後の信長の後継者争いは以前書いたとおり、清洲会議で羽柴秀吉と柴田勝家で対立が起こり結果、秀吉が天下を掌握した。





正直なところ、この本能寺の変には様々な推察があり何が本当なのか分からない。
なのであえて私から何か言及することはしない。

よく言われるのは光秀の恨みの爆発や秀吉の自作自演説など、でも本当のところは謎である。

まぁ、このような流れで本能寺の変が始まりその後の後継者争いへと発展していった。



あれ、ではどうして信長って何処かの城に入城しないで普通の寺なんかに滞在していたんだ?無防備すぎない?
と思われる方いることでしょう。
そんなあなたの疑問を解決しますと、信長は京都への滞在場所は必ずこの「本能寺」と決めていた。

というのも、本能寺は実は軍事的要塞の役割を備えていた点である。
広大な敷地面積を誇り、周囲を掘りで張り巡らし、堀内側には3メートルもの塀があり、当時は僧侶が300から400はいたのだという。
そう、本能寺はほぼ城と言っても差し支えないほどの機能を具備したうってつけの場所だったのである。

さらに、信長は本能寺の変前日にこの本能寺で茶会を開いている。
その理由として、伝説の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」がどうしても欲しかったからであった。楢柴肩衝を所有している島井宗室がこの茶会にくることになっており、それはもうその茶会に誠心誠意をかけていたのだろう。

茶会後は、護衛も少なく100人程度しか居なくなった状況にもなり、この期にうまく光秀に攻められたのだ。

この信長の油断こそが本能寺の変を招いたとも言えるのではないか。


実はそういった経緯もあったのである。


因みに知ってい方も多いが、現在の本能寺は当時とは別のところにある。
現在は廃校となった本能小学校の附近にあったとされ、現在はその場所に石碑がある。




最後に私が言いたいことは、本能寺の変は起こるべくして起こったのかもしれないし、本能寺の変で死ななくてもどこかで討たれていた可能性はたかいと思う。
やはり思うことは信長が討ち死にしたとしても嫡男の信忠が生きていればその後の戦国時代は大きく変わったのだろうと想像はつく。

信忠が生きていた別のところストーリーも非常に面白いのではないかと、私は妄想することしか出来ないが、そういうのも歴史の一つの楽しみ方であると思う。

ぜひ、みなさんも自分の歴史の「if」を探して想像してはどうだろうか。
きっと、面白い世界が想像の先に広がっているはずだ。





はい、ではこれにて本日は終了です。
例によってほぼ寝かけて書いているのでよく私自身も何が何やらわからないのだが、
それは大目に見てやって下さい。

本当に眠すぎてやばい。


寝る寝る寝るね。
おやすみなさい。

次回こそは有益な更新にきしたいと思います。



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どうもみなさんこんばんは。
本日は番外編も含めて2回目の更新です。
暇を持て余している熱狂的な当ブログファンの要望で暇な時は複数回の記事を書こうと思います。果たしてちゃんと見ているのかなぁ。


そんな本日は「化け猫のはなし」です。




今回お話する話は普通に化け猫の話をしてもあんまり面白そうではないので、「鍋島の化け猫騒動」について話そうと思う。

まず、「鍋島」というのは高校の時日本史の科目をとっていた人や戦国時代好きな方なら分かるだろう。

鍋島は鍋島藩、つまり佐賀藩のことを指し高校の教科書では明治維新の時に活躍した雄藩として登場する。当時の佐賀藩主の鍋島直正が役人の削減や借金の棒引及び割賦50年認めさせることなどの財政改革、そして藩校・弘道館を設立し教育改革を行ったりと様々な藩の改革を行い、尽く成功させたことで歴史に名を刻んだ。「薩長土肥」の肥はまさしく、肥前国である佐賀藩のことでそれほど明治維新に目覚ましい活躍を果たした。

戦国時代が好きな方は、「ああ、龍造寺から家を乗っ取ったあいつか」と思うのではないだろうか。戦国時代にはその佐賀藩の藩祖である鍋島直茂が有名。信長の野望でも非常に優秀な武将で、使い甲斐がある。

おっと、信長の野望の話は今は関係無かった。危うく大好きな信長の野望の話に逸脱するところだった。



その「鍋島」の化け猫騒動に今回は焦点を当てよう。


鍋島藩が成立する少し前、戦国時代からこの騒動の経緯をお話する。

戦国時代に肥前を治めていたのは龍造寺氏という九州地方では珍しい国人から下克上で成り上がりを果たした大名家の一族。中でも龍造寺隆信の頃に全盛を極め、あの島津家と並ぶほどの勢力を確立させた。

しかし、龍造寺隆信は1584年の沖田綴の戦いで有馬・島津連合軍に敗れ討ち死にをしてしまう。
その当時、龍造寺家の家老だった鍋島直茂は龍造寺隆信の死により次第に龍造寺家の実権を掌握していく。

龍造寺隆信の嫡男である龍造寺政家が跡を継ぐのだが、朝鮮出兵の直茂の活躍などにより龍造寺家臣団は政家ではなく直茂の方に傾倒していくなど、徐々に直茂の傀儡となっていった。
そういったこともあり、政家と直茂の不和が生じるようになる。
結局実権を直茂、そして子の勝茂(初代・佐賀藩主)に完全に奪われ佐賀藩は名を龍造寺、実は鍋島という二重体制が確立されてしまう。

政家は程なくして隠居をし子の龍造寺高房が跡を継ぐ。その高房は実権を龍造寺の元に回復させるために奔走するが、結局失敗に終わりこれに憤慨した高房は自殺未遂をする。一命をとりとめたもののその傷が元で死んでしまうのであった。
すると、その死後すぐに隠居していた父の政家も死去。これにてお家は断絶してしまうという悲劇で龍造寺家は終焉を迎えてしまった。


それ以来、龍造寺の残党が佐賀城下の治安を乱し、直茂は龍造寺の霊を鎮めるために天佑寺を建立した。
そして、この史実である「鍋島と龍造寺の遺恨」が後述する「化け猫騒動」への遠因というか、発端となる。



少し時代は経過し、二代佐賀藩主の鍋島光茂の時である。光茂の碁の相手をしていたのが家臣の龍造寺又七郎という者であった。
又七郎はその碁の最中に、光茂の機嫌を損ね、なんと、惨殺されてしまうのである。

又七郎の母親も飼っていた“猫”に胸中の悲しみを吐露し自殺をする。その猫が自殺した又七郎の母の血を嘗めて「化け猫」となり佐賀城の光茂を毎晩苦しめたのだという。
それを家臣の小森半左衛門が退治し、光茂を救い鍋島家は事なきを得た、という伝説が今に伝わる「鍋島の化け猫騒動」なのである。


前述した「鍋島と龍造寺の遺恨」が想像上の猫の化け物である化け猫の怪異で表現され、このような化け猫伝説が生まれたらしい。
さらに、後世にこの両家の遺恨が脚色されて
このような怪談へと発展したものだと考えられている。


そして、これは後に芝居化や講談、実録本として広く知れ渡り現代にも「鍋島の化け猫騒動」として伝わっている。





先日の6月15日の佐賀新聞にこんな記事が載っていた。



「佐賀に人魚伝説?! 鍋島家ゆかりの寺に謎の掛け軸」
佐賀に人魚伝説? 佐賀市本庄町の東光寺に、年老いた「人魚」を描いたとみられる謎の掛け軸がある。胸から下は魚、肩口までうろこをまとったその姿は、確かに人魚。笑っているのか、むき出しになった牙の隙間から真っ赤な舌がのぞき、目を見開いて振り返る様子は、見る人が声を上げるほど、おどろおどろしい。
「いつ誰が何のために描いたものか、全てが謎」と住職の三浦祥善さん(68)。絵に落款はなく、裏側は白紙で日付も作者の名前もない。
 東光寺は佐賀藩祖・鍋島直茂の父清房の代まで祖先供養する氏仏(うじぼとけ)として崇敬され、その後も直茂が薬師堂や厨子(ずし)を建造するなど、鍋島家とゆかりが深い。
かつては絵が見えにくいほど表面が黒ずんでいた。20年ほど前に「どう描かれているのかよく見てみたい」とクリーニングで汚れを取り除いたところ、舌の鮮やかな赤色が現れ、「不気味な容姿にあらためてびっくりした」という。
(佐賀新聞 2017.6/15 より引用)


どうだろう。恐るべき佐賀藩。
化け猫伝説に続いては「人魚伝説」。
あぁ、恐ろしい佐賀藩。化け猫なんて序の口かも、、、?




ふぅー。初夏には少し早く不気味なホラー話を今回取り上げました。
え?別に怖くないって?

そんなことおっしゃらないでくださいよ。

でもね、本当に怖いのは妖怪でも幽霊でもなく、人間なんですよ・・・。


もしかしたら佐賀は妖怪の宝庫なのかもしれませんね。

私も佐賀には行ったことありませんので機会があれば佐賀へ行ってみます!
(吉野ヶ里遺跡とか 笑)

この夏はみなさんも冷んやりしにホラーな伝説の宝庫、佐賀へ!!


それではまた明日。

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どうもみなさん。お元気ですか?
私は少しだけ元気です。
明日は土曜日ということでせっかく出張先にいるので、こちらで白川郷や五箇山の観光に出かけてみるか、以前の長期出張中に行きつけになったスーパー銭湯に行くか悩んでおります。どちらにいきましょうかね。
それは明日の更新時に発表します。


そんな本日ですが、「五月雨のはなし」をしたいと思います。



「五月雨」というと意味にピンとくるだろうか。
え?5月に降る雨のことじゃないの?
と思われる方もいらっしゃると思う。
まぁ、それもある意味正解。

本来の正しい意味は、

旧暦5月に降る長雨のこと。梅雨のこと。

という意味なのだ。旧暦5月というと、新暦でいう6月、そう今の時期なのだ。
もう、大体の地域が梅雨入りをしていることであるが、本当に梅雨の時期というのは最悪である。
ジメジメしてるし、晴れないし。

まぁ、そんな五月雨のはなしを少しだけ掘り下げようと思う。


五月雨といえば多くの方は次のことを連想するのではなかろうか。

「五月雨を あつめて 早し 最上川」

そう、これは松尾芭蕉が1689年に芭蕉自身にとって未知の国々や、僧侶である西行の足跡を辿るために出かけた「奥の細道」での一句である。

この句は文末に「最上川」とあるように、山形県の最上川を目にしたときに詠んだ句である。
実際には最上川を目にした、というより最上川を川下りしたときに詠んだ句であるという。
意味としてはそのまま
「梅雨に降る大量の雨で流れが早いよ、最上川」といったところか。

それもそのはず、最上川は日本三大急流の一つであり、特に梅雨の時期に増水した川の流れは非常に早いはずだ。
そのスーパーデンジャラスな最上川を舟で下ったというのだからすごい。

そんなスーパーデンジャラスな体験をしてこの名句が生まれたのだろう。


因みにこの句が最初に生まれたときは
「五月雨を あつめて すゞし 最上川」
だったという。
「五月雨がたくさん流れる最上川は涼しいなぁ」という風流な句である。
これは「あつめて 早し」の句が出来る少し前に山形の句会にて芭蕉が詠んだ句なのだ。

それを後日、最上川を川下りした芭蕉は以前の句会でよんだ「あつめて すゞし」を改案して「あつめて 早し」にしたのだと言われている。


なるほど、あの名句にはこんなエピソードがあったのか、と思わせるような話を一ついたしました。



その他にも「五月雨」と言えば、
ビジネスシーンでよく使われる「五月雨式」なんて言葉もある。
五月雨式とは、梅雨の雨のようにだらだらといつまでも続くとこと
を言う。
一つの案件を複数回に分けて連絡・報告した時や納品が分割されてしまったときなどに
「五月雨式ですみません」というように使う。

私はこんな小洒落た言葉を使ったことは無いが今後使ってみようと思う。



まぁ、実は「五月雨」という言葉も普段注目することはないが、実は注目してみると面白い、そんなお話しでした。


週末で疲れていてまとめがうまくできないけれどこれにて終了します。

ではまた明日!


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どうも、こんばんは。
ようやくテレビがない暮らしに慣れてきました。テレビがない生活も静かでいいものですね。
そんな悟った本日もセッセとブログ更新です。

なんと本日で記念すべき10回目。
と言うわけで10回目に相応しい話を!と力を入れて書きたいところですが、変に力を入れずにいつも通りなんでもないような事を書いていきます。

本日は「太郎太刀のはなし」です。



近年では若い女性を中心に「日本刀ブーム」なるものがきているそう。
大きな要因はゲームの影響で、今巷では物凄いことになっているらしい。
なんでも日本の名刀を“イケメン男子”に擬人化させ、それを女性がキャーキャー騒ぎ立てているのだという。

それがいいのか悪いのかはさておき、そういった日本独自の文化が注目されるのは良い傾向だろう。
今度は、ゲームの影響なんかではなく日本刀そのものの美しさや勇ましさ、そして、その日本刀にまつわる歴史やエピソードなんかに注目して欲しい。


で、本日のタイトルの「太郎太刀」の話に移る。
私はこの刀を見た事があり、見た時に非常に驚いた。
画像などアップするのが面倒ですので是非皆さんも調べて欲しいですが、もし見たことがある方がいれば共感してくれるのではないかなぁ、と思います。

この刀の特徴は何と言ってもそのスケール感。とてつもなくビッグサイズである。
何と刃渡りが221.5cmで重さが4.5kg。
通常の日本刀のは長さ90cm前後で、重さが1.5kg程度という事を考えればそのとてつもない大きさに驚くと思う。


この太郎太刀があるのは、愛知県名古屋市熱田区にある熱田神宮。
熱田神宮には三種の神器の一つでもある草薙剣が奉納されている事でよく知られている由緒ある寺社である。

数年前に私が行った時は、熱田神宮の宝物館を入ってすぐのところに展示がされていた。

とてもじゃないけどこんな刀持って戦えないだろうとは思ったが、誰も当時の戦さの様子は分からないので、それは歴史のロマンとして思いを馳せるのが良いだろう。


この太郎太刀を所有していたというのが戦国時代の武将、真柄直隆という人物である。
真柄直隆は朝倉氏の家臣で戦国時代きっての猛将として有名。
文献によれば身長は2メートルを超える体躯で、体重はなんと250kgだったと伝わっている。
因みに体重が250kgというとかつて大相撲で活躍した横綱、武蔵丸とほぼ同じであるのでとてつもなくヤバいことがわかるだろう。(武蔵丸は237kgだった)


そんな大男なら太郎太刀を片手に戦場を駆け抜けてたというのはありえない話でもない。
これこそ本当に歴史のロマンである。


さて、そんな真柄直隆も1570年の姉川の戦いで敵陣に太郎太刀を振りかざして奮戦するのだが徳川軍の前にて果てたのであった。


猛将の悲劇をも知る、戦国時代の変わった日本刀、みなさんも興味がでてきたでしょう?
是非、あなたの目で太郎太刀の大きさを確かめてみてはどうだろうか。

熱田神宮で是非ご覧あれ!
※石川県の白山比咩神社にも太郎太刀が奉納されており、それが真柄直隆が使用していたものとも伝わるので白山比咩神社にも行ってみよう!



ということで、本日はここまで。
日本刀を一つの美術品として見ても結構ですが、歴史的な背景なども知った上で鑑賞するのも面白いのかもしれません。


この夏は“熱”田神宮で、“熱”い夏を過ごしましょう!


今回は明日朝早いので少し早いけど終了。
おやすみなさい。


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どうも、こんばんは。
出張先でテレビが無く、孤独感と虚無感のダブルパンチで瀕死状態ですが、なんとかこちらだけは更新しようと頑張っております。本日もお付き合い下さい。

そんな本日は最近、地域の話を立て続けに行いましたのでもっと為になるような、明日誰かに話したくなるような話を書ければと思い執筆致します。

題して「鉄のはなし」です。


実は今回書こうとしていることは、「鉄」そのものの、本来の意味の鉄の事を書こうとしているのではない。
物質的意味での「鉄」のことでは無く、今みなさんが画面越しにみている「鉄」というビジュアル的な「鉄」についてのことを言っている。

そもそも鉄という漢字がどういう成り立ちで現在まで使用されてきたかご存知だろうか。
実は「鉄」という字が本格的に使用され始めたのは結構最近で、大凡1940年前後から使用をされてきたそうだ。
というのも、鉄は元々「鐵」の新字体であり1940年より以前は日本中の誰もが「鐵」の漢字を使用していた。

新字体は所謂、常用漢字というやつで昔の仰々しい複雑な漢字を分かりやすい簡略化された漢字に制定したのが新字体、と言えば分かりやすいだろうか。
例を挙げると

氣→気 國→国 體→体 壽→寿 縣→県

などなど、挙げればキリがない。
特によく見かけるのは名字で旧字が使用されているのことを例に挙げると分かりやすいだろうか。
櫻井さんの桜、廣瀬さんの広、濱口さんの浜など、これらも新字体ではなく旧字体がそのまま使われてい、という一例である。

おっと、話が脱線仕掛けているのでここで話を「鉄」に戻そう。
(私が旧字マニアなのはここだけの話です)

鉄も最近までは鐵であったので案外歴史は浅い、新参者というワケである。

そこで、みなさんはこんな話を聞いたことが無いだろうか。

「鉄という字は“金”を“失う”と書くから企業名での使用が避けられるている」

よくあるのが鉄道会社。鉄では無く鐵が使用されている事か多々ある。
例えば静岡県を走る「大井川鐵道」や北関東で、SLが有名な「真岡鐵道」なんかがその主たる例である。
他にも製鉄会社などでこういった現象は起きており、あえて鉄ではなく「鐵」を企業の正式名称として採用していることが多く見受けられる。

そこで、私も今回初めて知ったのだが
「あれ?JR各社って普通に“鉄”の漢字使ってるよな、さすがにJRともなればそんなこと気にしないんだなぁ」と思っていたが、みなさんJR各社の企業名をよ〜く目を凝らしてみてみて下さい。

全てのJRの鉄道の漢字が「鉃道」になっになっていることを確認できただろうか???

そう、金編に矢の「鉃」を使用しているのだ。

これには筆者も唖然、騒然。あのJRさんも「鉄」を避けていたのだ。



あれ、ちょっと待てよ、ではJRの前身の「日本国有鉄道」もそうだったのか!?と思い調べたところ旧国鉄はまさかのそのまま「日本国有鉄道」でした。

実はJR各社が「鉃」を使用したのは国鉄時代に経営困難で赤字に苦しんだ辛い過去からなんだとか。
つまり、国鉄時代から経営を一新しよう、という意気込みがあったワケである。




さて、いかがだったでしょうか。
今回の「鉄」の事例から見ても分かるように、日本は昔からこういった迷信染みたことが凄く多いと思います。
それが、何故だかは分からないし、お国柄と言ってしまえばそれまでかもしれないが、本当に些細な事を気にしすぎると、つくづく今回の事で思いました。

でも逆に言うと、そういった些細な事でも気にすることが出来ることって素晴らしいことなのではないでしょうか。
拘りを持っているという信念の強さや矜持。
いや〜、カッコいいですね〜。
私もそういった何か拘りを持った大人になりたいなと改めて思いました。



というわけで、本日は「鉃のはなし」をお送りしました。
最終的に少し結論がそれてしまいましたがそこはご愛嬌ということで、勘弁して下さい。

この時間になると本当に何書いてるんだか訳わからなくなるんですね。


それでは、お休みなさい。




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