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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうもこんにちは。
昨日、東京裁判の話を記事にしたので
「あ〜、それならこの話も書かないとなぁ」
と思いまして、今回ブログを更新したいと考えてます。
タイトルは
「草むしりのはなし」 です。
この話は本当に鳥肌モノのいい話で、ハンカチ片手に読んで下さいね。
タイトルに騙されるな!これは歴史の話だ!
話は太平洋戦争直前のこと。
米内内閣でのお話。
1940年、阿部信行を首班とする内閣が瓦解、次の内閣は阿部内閣で陸相を務めていた「畑俊六」が首相になるのでは?と後継の首相を噂をされていた。
当時は第二次世界大戦が、勃発しナチス・ドイツが怒涛の攻撃でポーランドを侵攻するなど日本国内でも日独伊三国同盟を結ぶべきである、という声が強くなっていた。
この情勢を憂慮した昭和天皇はここは陸軍の首相を選ぶのではなく、むしろ海軍から首相を推挙すべきだ、という考えのもと海軍の良識派として人望も厚い米内光政を推挙した。
米内内閣が組閣され、畑は首相ではないにしろ阿部内閣と同じく陸相に据えられた。
しかし、米内は親英米派。そして日独伊三国同盟反対論者であり、陸軍からは不評をかっていた。
少し前にも書いたように、次の内閣は畑俊六であると、思っていた陸軍はこれに猛反発。
米内内閣を倒閣させようという動きがすぐにでてくることとなる。
1940年の6月、いよいよナチス・ドイツがフランスを降伏に追い込む。これにより、陸軍はドイツ・イタリアとより接近したいという考えにより、米内内閣の倒閣を実行に移す。
翌月の7月4日、「陸軍の総意」として陸軍首脳部は畑に陸相の辞職を勧告し、畑は辞職をするのであった。
米内は後任の陸相を出してくれ、と陸軍に言うのだが陸軍はこれを拒否。
軍部大臣現役武官制という制度は耳にしたことがあると思うが、当時は現役の軍人でなければ陸海の軍部大臣を務められない制度だったので畑が辞め、陸軍が後任を出さなければ内閣は構成できずに総辞職をせざるを得なくなってしまった。
米内内閣はわずか半年で瓦解、日本を太平洋戦争へと突き進むことを止められたかもしれない最後の砦がここに崩壊したのであった。
この次の内閣は何を隠そう戦争の発端を作った第二次近衛文麿内閣なのであるが、米内内閣倒閣はまさに日本の重要な分岐点だったと言えるだろう。
数年後、終戦を迎えるとこの戦争の責任問題が問われることになった。
連合国は戦争犯罪人を裁くべく戦犯を起訴していった。
もれなく、畑俊六はA級戦犯に指定、起訴されることとなる。
もちろん、上記の経緯から畑の行動が親英米派の米内内閣倒閣の原因を作り、太平洋戦争の道筋を示したことは言うまでもない。
畑の裁判が始まり、証言台にはあの米内光政。
米内にとっては因縁の相手、生かすも殺すも米内の発言にかかっていた。
証言を求められた米内は
「えー、忘れました」
「うーん、しりません」
と、終始この調子でのらりくらりと裁判官からの質問を交わし、一切証言をしなかった。
米内は当時の畑の辞職は軍部の意見で仕方ないことだったと思い、畑を庇ったのだった。
裁判長のウェッブからは
「こんなに愚かな首相をみたことがない」と侮辱されても彼は何一つ発言をすることなかった。
結果、裁判にて判決が出された。畑の判決は「終身禁錮」。非常に重い責任があった畑は米内の擁護のおかげで絞首刑を免れたのである。
米内は1948年に肺炎のため68歳で逝去。激動の時代を生きた米内はその人生に終止符をうった。
時は流れ1960年。米内の死後12年が経っていた。
米内の故郷、盛岡にある盛岡八幡宮にて背広姿の米内の銅像が建てられその除幕式が執り行われた。
盛岡の英雄・米内の銅像の除幕式だけあって多くの人が式に参列した。
盛岡八幡宮 米内光政の像
除幕式の早朝、会場の盛岡八幡宮の境内を草むしりをする老人の姿があったという。
この老人こそ当時81歳の「畑俊六」その人なのであった。
なんだろう、この凄く出来たお話は・・・
これで一本映画作れますよ( ; ; )
時代に振り回されても自分の中にある大切なものだけは失わない、米内の出来た人間性。
そして、いつになっても恩を報いる畑の人情。
もう、感動の二文字しかそこにはないです。
畑俊六が黙々と草むしりをしている姿を想像したら泣けてきますね。
本日はこんな心温まるほっこりとしたお話をお伝えしました。
これぞ、現代の鶴の恩返しやで!!
それではまた。
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