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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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やっほー☆
みんな、元気ー☆?
と、テンション上げぎみで始まっております。
昨日は、帰宅時間がめちゃくちゃ遅かったので更新できませんでした。
唯一の当ブログファンからお叱りを受けて反省。本日はしっかりと更新いたします。
今回も歴史関係の話です。
毎回毎回歴史の話で本当に申し訳ないのですが、こればっかりは我慢してください。
何かご要望があればお答えしていきたいと存じます。
さて 、本日は前回の「ミニ歴史!」で扱ったものと関連してしまうのですが
「本能寺の変のはなし」というテーマで執筆していきたいと思います。
お付き合い下さい。
今から435年前の今日、まさに歴史は動いた。
戦国時代、天下布武を掲げた英雄は家臣の謀叛によってこの世から去ることになった。
そう、まさに「本能寺の変」が1582年の6月21日におきた。
誰でも知っている、この本能寺の変によりほぼ天下を手中に収めていた織田信長は討ち死にし、嫡男・織田信忠も死んでしまうという悲しい顛末を迎える。
謀叛を起こしたのはご存知、明智光秀。
今現在も何故、光秀が謀叛を起こしたのかは謎に包まれている。
では、本能寺の変とは一体なんなのか、少し掘り下げたいと思う。
1582年当時、信長は甲州征伐も完了させ着々と天下取りへの道のりを進めていた。
北陸地方には柴田勝家、四国地方には三男・織田信孝と丹羽長秀、北信濃方面には森長可、上野からは滝川一益と、四方八方に攻め入っていた。
謀叛の張本人である明智光秀はというと、甲州征伐の戦勝祝いと駿河国加増のお礼で安土城に徳川家康が来ていた。
その接待役を信長から命じられたのが光秀であった。
家康をもてなしていた光秀だったが、中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉から備中高松城攻めの援軍が欲しいと頼まれ、急遽光秀を派遣することとなった。
信長も中国攻めの為に本能寺で準備していた。
すると、秀吉の援軍に行ったはずの光秀が途中で折り返し京都の本能寺に攻め入った。
信長の軍勢はわずか100人足らず。対する光秀の軍勢は1万の以上という圧倒的な戦力差である。
当初信長も槍を片手に奮闘するのだが、圧倒的な力の差を感じ自身で火をつけ自刃したのだ。
嫡男の信忠も信長同様、秀吉救援のため京都の妙心寺に滞在していたが、秀吉は謀叛の知らせを受け、二条新御所へ移動。そこで前線をするが自刃してしまうのであった。
これにより、光秀はその手に天下を納めたように見えたが、中国地方に遠征していた羽柴秀吉がその一方を聞き、神速で京へ戻って来たのだ(中国大返し)。
京へ戻った秀吉と光秀は山崎の戦いで死闘を繰り広げ、光秀は秀吉の軍勢に敗走。後に、山中にいたところを発見され殺されるのであった。
この後の信長の後継者争いは以前書いたとおり、清洲会議で羽柴秀吉と柴田勝家で対立が起こり結果、秀吉が天下を掌握した。
正直なところ、この本能寺の変には様々な推察があり何が本当なのか分からない。
なのであえて私から何か言及することはしない。
よく言われるのは光秀の恨みの爆発や秀吉の自作自演説など、でも本当のところは謎である。
まぁ、このような流れで本能寺の変が始まりその後の後継者争いへと発展していった。
あれ、ではどうして信長って何処かの城に入城しないで普通の寺なんかに滞在していたんだ?無防備すぎない?
と思われる方いることでしょう。
そんなあなたの疑問を解決しますと、信長は京都への滞在場所は必ずこの「本能寺」と決めていた。
というのも、本能寺は実は軍事的要塞の役割を備えていた点である。
広大な敷地面積を誇り、周囲を掘りで張り巡らし、堀内側には3メートルもの塀があり、当時は僧侶が300から400はいたのだという。
そう、本能寺はほぼ城と言っても差し支えないほどの機能を具備したうってつけの場所だったのである。
さらに、信長は本能寺の変前日にこの本能寺で茶会を開いている。
その理由として、伝説の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」がどうしても欲しかったからであった。楢柴肩衝を所有している島井宗室がこの茶会にくることになっており、それはもうその茶会に誠心誠意をかけていたのだろう。
茶会後は、護衛も少なく100人程度しか居なくなった状況にもなり、この期にうまく光秀に攻められたのだ。
この信長の油断こそが本能寺の変を招いたとも言えるのではないか。
実はそういった経緯もあったのである。
因みに知ってい方も多いが、現在の本能寺は当時とは別のところにある。
現在は廃校となった本能小学校の附近にあったとされ、現在はその場所に石碑がある。
最後に私が言いたいことは、本能寺の変は起こるべくして起こったのかもしれないし、本能寺の変で死ななくてもどこかで討たれていた可能性はたかいと思う。
やはり思うことは信長が討ち死にしたとしても嫡男の信忠が生きていればその後の戦国時代は大きく変わったのだろうと想像はつく。
信忠が生きていた別のところストーリーも非常に面白いのではないかと、私は妄想することしか出来ないが、そういうのも歴史の一つの楽しみ方であると思う。
ぜひ、みなさんも自分の歴史の「if」を探して想像してはどうだろうか。
きっと、面白い世界が想像の先に広がっているはずだ。
はい、ではこれにて本日は終了です。
例によってほぼ寝かけて書いているのでよく私自身も何が何やらわからないのだが、
それは大目に見てやって下さい。
本当に眠すぎてやばい。
寝る寝る寝るね。
おやすみなさい。
次回こそは有益な更新にきしたいと思います。
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