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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうも、こんばんは。
いつも凝りに凝ったブログを書こうとして
時間がないときや眠すぎるときの処置として思いついたのが、この「ミニ歴史!」のコーナーです。
短い文にサクッと興味深い歴史的なことを紹介しちゃうよ!
それでは今回のミニ歴史はこちら。
「むかしより 主(しゅう)をうつみの
野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」
※羽柴ちくぜん=羽柴秀吉 秀吉は筑前守を受領名としていたことから
これは織田信長の三男である織田信孝の辞世の句です。
サクッと織田信孝について説明します。
1582年に信長が本能寺の変にて明智光秀に討たれます。と同時に二条御所で嫡男・織田信忠も討たれてしまいます。
そこで後継者争いへと発展し、
羽柴秀吉が信長の孫の織田秀信を
柴田勝家が信長の三男・織田信孝を
それぞれ推したことで対立してしまいます。
それにより賤ヶ岳の戦いが勃発。柴田勝家軍の敗北、勝家・信孝の両氏は自刃します。
因みに信孝は秀吉の意向で尾張国野間の内海大御堂寺にて切腹させられました。
その時に信孝が詠んだ句が上記の詩なのです。
まず前提として、秀吉は仮にも信長の家臣でありますので、御一門の信孝が主君なのです。
そして、この詩はかつて同じ尾張国野間の内海で主君である源義朝を騙し討ちにして平清盛に首を献じた逆臣・長田忠致の故事にかけたものといわれています。
長田忠致はその後、義朝の子である源頼朝に仕えるわけですが、親の仇である忠致が平氏を滅ぼした際に褒美を欲したそうで、それを頼朝が「美濃尾張をくれてやる」と言い斬首に処したそうです。
この「美濃尾張」は「身の終わり」と掛けてのことでした。
この句も秀吉にもいつかこの故事のように主君(信孝)を討った報いが訪れるぞ、ということを詩にしたものです。
なんとも怖い呪いの句を詠んだものです。
詩のなかの「うつみ」は
・内海
(尾張国野間の内海)
と
・討つ身
をかけております。
ここまで清々しく相手に対しての憎悪などの辞世の句があるとは驚きです。
辞世の句ってもっと晴れやに散る、美しいものだとばかり思っておりました。
まぁ、こんな様な変わった辞世の句もあるんだということを是非頭の片隅にでもインプットしていただけたらと思います。
それでは!
おやすみ!
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