ナベログ!
ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうも、こんばんわんこそば
本日も平然と更新です。
さて、本日はずっーーーと、歴史の話が多くて続いていましたから違う系統の話をしようと思います。
今回はタメになること間違いなし!
過去最高に皆さんのお役に立つと思います!!
で、なんの話をするかと言えば
そう!
「山崎製パンのはなし」です!
それでは書いていきます。
まず、最初に断っておきたいが今回はただの私の嗜好について淡々と語っていくというかオススメ?していくだけですのでそこは御理解下さい。
それが何のタメになるの?と疑問の方、大丈夫。
この記事が終わる頃にあなたは自分にとって最高のパンを見つけているでしょう。
私はパンが好きだ。いや、大好きだ。
私の身体の8割はパンで出来ていると言っても過言ではない。
ここ数年、パンを欠かしたことがない。
パンは私の燃料。車で例えるとガソリンの様なものである。
それくらい私はパンに熱意を持っているし、パンに敬意を持っている。
中でも菓子パンが好きで、菓子パンが世の中から無くなってしまったら多分死んでしまうだろう。冗談じゃなく、それくらいの愛がある。
少し興奮して前置きが長くなってしまったが、今回はパンメーカー大手の「山崎製パン」が誇るパンofパンを紹介したいと思う。
(これは23歳の私が今何のパンが好きかを記しておくことで将来の嗜好の変化を分析する貴重な資料となる)
では、紹介していきたい。
最初に、これ!
「ローズネットクッキー」
外はカリカリ、中はふんわり。
これほど食感を楽しめるパンがかつてあったであろうか?
この脳に直接訴えかける甘さも抜群に素晴らしい。
「食卓の花」というキャッチコピーで愛されるヤマザキが誇るベテラン。
菓子パンというよりも、まんまお菓子みたいなところはあるけども美味しければなんでも良いのだ。
続いてはこれ!
「高級つぶあん」
でました、安定の3割バッター。
これぞ王道。無事是名馬を地でいくような長年愛されている古豪パン。
リーズナブルなのに「高級」と銘打っている矛盾もまた良い。それでいい。
本当の高級さはこのパンを食べてみれば自ずと意味が分かるだろう。
しつこくない甘さが何個でも食欲を誘う魔法のパン。Magic bun の称号を与えよう。
次はこれ!
「ミニスナックゴールド」
派手な名前と外見そのままに、食欲を満たしてくれる人気者。
クセになる美味さで見かけたらつい買ってしまいがちなパンである。
このパンの上にかかってる白い砂糖のやつが本当にイイネ
まさに、私たちをパンの深みへと誘うシルクロードである。
ただ、あまり取り扱いが少ない?のかあまり店頭にないことが多く個人的にはレアなパン。
さてさて、続きましてこれ!
「イチゴスペシャル」
パンというよりは寧ろケーキといった方がいいだろう。
山崎製パン界のアイドル。
味そのものは甘さ一辺倒と、荒削りの部分はあるがそこがまたいいところなのだ。
この甘さが中毒性があって一度ハマったら抜け出せない怖さも秘めている。
因みに、イチゴスペシャルは亜種がたくさんあって
・バナナスペシャル
・ショコラスペシャル
・アーモンドスペシャル
などなど沢山の派生系が存在して我々の目を楽しませてくれる。
お待たせしました、次はこれ!
「ロールちゃん」
山崎製パン界のペット、ロールちゃん。
こいつはこの名前の可愛さに騙されてはいけない。美味さの破壊力は山崎製パン随一とも言われる。
綺麗な花には棘があるとはまさにロールちゃんを現したような言葉である。
ロールちゃんを一日中ひたすら食べていたい、そんな衝動に駆られることがみなさんもあるはず。そんなときは我慢せず食べよう!
因みにこのロールちゃんも味のバリェーションが豊富だがやっぱり「チョコクリーム」が至高。
でましたでました、これ!
「まるごとバナナ」
山崎製パンの大エース。
パン界・デザート界の両方で燦然と輝くまさにスーパースターである。
「菓子パンじゃないじゃん」という声が聞こえてきますが、もはやこのクラスにもなると関係ない。カテゴリーを超越しているのだから。
冷凍庫に程よく入れておくとめちゃくちゃ美味しいのはここだけのお話。
最後はやっぱこれでしょ!
「スイートブール」
もしも、「あなたが最期にどのパンを食べるか?」と聞かれたら間違いなくこのパンを選ぶだろう。
味・量・質と三拍子揃った山崎製パンが誇るパン界のレジェンド。
このパンの特徴といえばやはりフワフワ感。まるで綿菓子を食べているような感覚に陥る。
このパンが全世界に広がれば戦争なんて起きないのに・・・。そう思わざるを得ないくらい美味しい最高のパンである。
このパンだけは食べて欲しい!!
どうだったであろうか?
あなたの好きなパンはこの中にあっただろうか?
そして、今回の記事であなたが好きなパンを見つけることができただろうか?
正直、ブログでは全然伝わらないが、少しでもパンの素晴らしさを知っていただけたらありがたい。
みんな、パンを食べよう!!
といったところで本日は終了です。
山崎製パン意外にも好きなメーカーはありますが、とりあえず最大手の山崎製パンは欠かせませんの今回紹介しました。
また機会がありましたら他のパンも紹介いたします。
とにかく、みんなでパンを食べて笑顔になりましょう!
おやすみ
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どうもこんにちは。
昨日、東京裁判の話を記事にしたので
「あ〜、それならこの話も書かないとなぁ」
と思いまして、今回ブログを更新したいと考えてます。
タイトルは
「草むしりのはなし」 です。
この話は本当に鳥肌モノのいい話で、ハンカチ片手に読んで下さいね。
タイトルに騙されるな!これは歴史の話だ!
話は太平洋戦争直前のこと。
米内内閣でのお話。
1940年、阿部信行を首班とする内閣が瓦解、次の内閣は阿部内閣で陸相を務めていた「畑俊六」が首相になるのでは?と後継の首相を噂をされていた。
当時は第二次世界大戦が、勃発しナチス・ドイツが怒涛の攻撃でポーランドを侵攻するなど日本国内でも日独伊三国同盟を結ぶべきである、という声が強くなっていた。
この情勢を憂慮した昭和天皇はここは陸軍の首相を選ぶのではなく、むしろ海軍から首相を推挙すべきだ、という考えのもと海軍の良識派として人望も厚い米内光政を推挙した。
米内内閣が組閣され、畑は首相ではないにしろ阿部内閣と同じく陸相に据えられた。
しかし、米内は親英米派。そして日独伊三国同盟反対論者であり、陸軍からは不評をかっていた。
少し前にも書いたように、次の内閣は畑俊六であると、思っていた陸軍はこれに猛反発。
米内内閣を倒閣させようという動きがすぐにでてくることとなる。
1940年の6月、いよいよナチス・ドイツがフランスを降伏に追い込む。これにより、陸軍はドイツ・イタリアとより接近したいという考えにより、米内内閣の倒閣を実行に移す。
翌月の7月4日、「陸軍の総意」として陸軍首脳部は畑に陸相の辞職を勧告し、畑は辞職をするのであった。
米内は後任の陸相を出してくれ、と陸軍に言うのだが陸軍はこれを拒否。
軍部大臣現役武官制という制度は耳にしたことがあると思うが、当時は現役の軍人でなければ陸海の軍部大臣を務められない制度だったので畑が辞め、陸軍が後任を出さなければ内閣は構成できずに総辞職をせざるを得なくなってしまった。
米内内閣はわずか半年で瓦解、日本を太平洋戦争へと突き進むことを止められたかもしれない最後の砦がここに崩壊したのであった。
この次の内閣は何を隠そう戦争の発端を作った第二次近衛文麿内閣なのであるが、米内内閣倒閣はまさに日本の重要な分岐点だったと言えるだろう。
数年後、終戦を迎えるとこの戦争の責任問題が問われることになった。
連合国は戦争犯罪人を裁くべく戦犯を起訴していった。
もれなく、畑俊六はA級戦犯に指定、起訴されることとなる。
もちろん、上記の経緯から畑の行動が親英米派の米内内閣倒閣の原因を作り、太平洋戦争の道筋を示したことは言うまでもない。
畑の裁判が始まり、証言台にはあの米内光政。
米内にとっては因縁の相手、生かすも殺すも米内の発言にかかっていた。
証言を求められた米内は
「えー、忘れました」
「うーん、しりません」
と、終始この調子でのらりくらりと裁判官からの質問を交わし、一切証言をしなかった。
米内は当時の畑の辞職は軍部の意見で仕方ないことだったと思い、畑を庇ったのだった。
裁判長のウェッブからは
「こんなに愚かな首相をみたことがない」と侮辱されても彼は何一つ発言をすることなかった。
結果、裁判にて判決が出された。畑の判決は「終身禁錮」。非常に重い責任があった畑は米内の擁護のおかげで絞首刑を免れたのである。
米内は1948年に肺炎のため68歳で逝去。激動の時代を生きた米内はその人生に終止符をうった。
時は流れ1960年。米内の死後12年が経っていた。
米内の故郷、盛岡にある盛岡八幡宮にて背広姿の米内の銅像が建てられその除幕式が執り行われた。
盛岡の英雄・米内の銅像の除幕式だけあって多くの人が式に参列した。
盛岡八幡宮 米内光政の像
除幕式の早朝、会場の盛岡八幡宮の境内を草むしりをする老人の姿があったという。
この老人こそ当時81歳の「畑俊六」その人なのであった。
なんだろう、この凄く出来たお話は・・・
これで一本映画作れますよ( ; ; )
時代に振り回されても自分の中にある大切なものだけは失わない、米内の出来た人間性。
そして、いつになっても恩を報いる畑の人情。
もう、感動の二文字しかそこにはないです。
畑俊六が黙々と草むしりをしている姿を想像したら泣けてきますね。
本日はこんな心温まるほっこりとしたお話をお伝えしました。
これぞ、現代の鶴の恩返しやで!!
それではまた。
どうもお疲れ様でう。
本日もよろしくお願いしまう。
土曜日なので元気に更新いたします。
そんな本日ですが、何回連続で歴史系のはなしを書いてるのかわかりませんが本日もまさかの歴史系の話です。
あんまり歴史に興味がない方には申し訳ありません。
(といってもこのブログ見てるの1人しかいないから別にいいか・・・)
もっとブログファンが増えたらバリエーション豊富にやってきたいと思いますので今回は御容赦下さい。
さて、本日は「東京裁判のはなし」です。
1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた連合国が日本の戦犯を裁いた軍事裁判を「東京裁判」と呼ぶ。
正式には「極東国際軍事裁判」という。
いわゆる戦争犯罪人として、裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。
よく聞く「A級戦犯」と呼ばれる戦争犯罪人が主に裁かれた。
【関東軍関係 】
・板垣征四郎
・南次郎
・梅津美治郎
【特務機関 】
・土肥原賢二
【陸軍中央 】
・荒木貞夫
・松井石根
・畑俊六
・木村兵太郎
・武藤章
・佐藤賢了
・橋本欣五郎
【海軍中央 】
・永野修身
・嶋田繁太郎
・岡敬純
【総理大臣 】
・広田弘毅(外交官)
・平沼騏一郎(司法官僚)
・東條英機(陸軍)
・小磯国昭(陸軍)
【大蔵大臣 】
・賀屋興宣
【内大臣 】
・木戸幸一
【外務大臣 】
・松岡洋右
・重光葵
・東郷茂徳
【外交官 】
・大島浩(駐ドイツ大使)
・白鳥敏夫(駐イタリア大使)
【企画院総裁 】
・鈴木貞一
・星野直樹
【民間人 】
大川周明(思想家)
もう、錚々たるメンバー。特に軍関係者は太平洋戦争のオールスター的な人物が揃い踏みである。
また、軍関係者の一覧を見ると陸軍が多くを占めているのが分かる。やはり、それほど太平洋戦争は陸軍による暴走が目立ったということである。(海軍が有能揃いということもあるが)
ともかく、上記計28名がA級戦犯として起訴。このうち永野修身と松岡洋右が判決前に病死、唯一の民間人である大川周明が精神障害により不起訴となり結果として25名が判決を受けることとなった。
(因みに大川周明の精神障害は恐らく詐病で、馬鹿になったフリをして判決を免れたという伝説がある。
大川周明、東條英機を叩く
こちらのリンクを見ていただきたいのだが、大川周明が裁判中にも関わらず前の席にいた東條英機の頭を叩くのは余りにも有名である。)
この東京裁判、結局は勝者が敗者を裁く裁判としてこんな裁判有りなのか、という裁判であった。連合国が選定した裁判官が自由に裁けるのだからそれはもう裁判ではないだろうと、様々な問題点があったのだが、そこは勝者のいいなり。
判決として死刑をはじめ、終身刑、有期禁錮と25名全員が有罪判決を受けることとなった。
そうそう、この裁かれた方々は全員「A級戦犯」であるが定義を知っているだろうか。
戦犯いくつかに分類されており
A級⇨「平和に対する罪」
B級⇨「通例の戦争犯罪」
C級⇨「人道に対する罪」
という定義付けがされている。
従って、A級戦犯だからといって1番罪が重いということは無く、BC級と罪の重さは変わらない。
むしろ、BC級戦犯というのは捕虜の虐待や大量殺人の実行者、そしてそれの指揮者が指定されるのでありこちらの方が残虐であるとも言える。
BC級戦犯は約1000人もの犯罪人が死刑に処されたという事実も知っておくべきであろう。
話を戻すが、東京裁判では数々の問題点もあったのだがこうして多くの戦争犯罪人が重い判決を受けた。
しかしながら、裁判官の中にもやはりこの戦争に疑問を持つ裁判官もいた。
それが、インドから派遣されたパール判事。
判事の中では唯一の国際法の専門家であっり、裁判では平和に対する罪と人道に対する罪とが事後法にあたるとして全員無罪を主張した。
無罪を主張したことで日本では著名な方である。
しかしながら、当時の勝者の裁きの流れの中でこのような主張をするというのは非常に芯の強い、判事であったのだろうと思う。
今も日本ではパール判事の主張を賛美する声も多くあり、東京の靖国神社には「パール博士顕彰碑」が建てられ、その功績が讃えられている。
A級戦犯でも極刑に処されたのは以下の7人。
・土肥原賢二
・松井石根
・東条英機
・武藤章
・板垣征四郎
・広田弘毅
・木村兵太郎
7人中6人が軍人でしかもその6人全員が陸軍の軍人。そして唯一の文官で元総理大臣の広田弘毅が死刑となった。
個人的な見解だが、この中でも武藤章の極刑というのは何とも不可解なような気もする。一番の要因はフィリピンでの虐殺の指揮官だったことが挙げられているが、それならば何故A級戦犯として裁かれたのか。
そして、終戦時に現地で起訴されていない点においてもよく分からない。
階級もこの中では唯一の中将であるし、開戦時も軍務局長であったとはいえそこまで責任があるとも思えない。
武藤章の処置についてはいささか疑問ではある。
その他の人物は非常に戦中には重要なポジションにいた人物であるので、これについてはまぁ納得のところはある。
特に多くの人がA級戦犯といえば東條英機を思い浮かべるのではないだろうか。
東條英機も開戦してからの悪いタイミングで総理大臣になってしまって同情するところはあるが、やはり罪は重いだろう。
この7人の遺骨は現在、愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山にある「殉国七士廟」に祀られている。
東京裁判というのは非常に不明瞭な裁判であることは間違いなく、この裁判は正しいものかというとそうではないかもしれない。
ただ、多くの疑問が残るがやはり戦後の区切りやケジメとしてこの東京裁判というものは必要だったのだろうと思う。
こういった経験を過去にしていることこそが、今後の日本の未来に繋がるのではないか。過去の教訓を学んで、これまで以上によりよい日本を歩んでいってほしいものだ。
やっぱり平和が一番!!
ということで、今回の話は終わりです。
少しでも東京裁判について知っていただければ幸いです。
最後に東條英機の辞世の句を貼って寝ます。
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
それでは、また明日。
good night!
どうもみなさん。
本日はミニ歴史の第二弾です。
面白い?歴史をパパッと紹介です。
タイトルは
「作戦の神様?悪魔の参謀?」
です。
これはある人物の異名なのですが、お分かりでしょうか?
正直なところ、昭和期の戦争について詳しくない方はわからないと思います。
この正反対の異名をつけられたのが
「辻政信」 という人物でした。
辻政信について簡単に説明しますと、旧大日本帝国陸軍の軍人であり、後に政治家となった方です。
主に太平洋戦争期で活躍?されました。
1902年に石川県で生まれて、名古屋陸軍地方幼年学校⇨陸軍士官学校⇨陸軍大学校 という超が付くほどのエリート街道を歩みます。
幼年学校、士官学校では首席卒業。陸大では3位の席次で卒業という誰もが羨むエリートの中のエリート。
そんな辻政信は、勿論出世コースにのり参謀本部で陸軍の中央で指揮系統の職務に従事します。その後、関東軍への転出やマレー作戦、ガダルカナル、ビルマ戦線へと任務に就き、第18方面軍の高級参謀としてタイ・バンコクで終戦を迎えました。
終戦を迎えるまで、参謀として数々の作戦を立案しある者は「作戦の神様」と呼びまたある者は「悪魔の参謀」と呼びました。
というのも、確かに辻政信の作戦が素晴らしい、と陸軍の内部では評判だったらしく自他共に認めるエリート参謀だったらしい。
しかし、失敗も多く「無能」という評価も凄まじく多い。特にノモンハン事件などは日本軍が壊滅的な被害に遭い、敗北を喫した要因である辻の作戦や行動などは無能と言わざるを得ないでしょう。
ここでは多くを語らないですが、この辻政信という人物は本当に毀誉褒貶がすごい人で有能とも無能とも今でも論争が繰り返されています。
で、今回私が辻政信について語りたかったのは彼の参謀としての能力ではなく彼の戦後についてなんです。
まず、彼は終戦後に戦犯として捉えられることを回避しようと終戦地のバンコクで日本人僧侶になりすましタイ国内に潜伏します。情報を得たイギリス軍関係者が捜索しますが、その捜査網を潜り抜けヴィエンチャンからハノイ経由で重慶へと逃亡しました。
中国では国民党に匿われますが、1948年に上海経由で日本に帰国を果たします。
1948年の日本はまだ戦犯で起訴を行なっており辻政信は国内でも姿を隠し全国各地を転々とします。1950年に戦犯指定が解除されたのを知り再び世に姿を現しました。
戦後から約5年間もの間、戦犯として捉えられることなく国内外を逃げ回っていたというからなんとも凄まじい。
そして、戦犯指定を解除された途端また世の中に姿を現わすという面の皮の厚さ。
うーん、なんというか色々と強い人間何だろうと思います。
しかも、これだけではなくなんと1952年には石川県から衆議院議員に当選し政治家となっています。仮にも戦犯として捜索されていたのにも、かかわらず政治家になったというから驚きです。
そして、辻政信はこの経歴だけでも興味深いのにこれだけではありません。
1961年に東南アジアに公務として視察に出かけたっきり日本に戻ってくることはありませんでした。
そうなんです。謎の失踪を遂げるのです。
この失踪については色々と憶測がありますが、結局何年たっても帰国することはなく1968年に裁判所からの死亡宣告がされました。
うーん、この凄い人生。
正直もっと詳しく書きたいですが今回はこういう面白い人もいるんだ、ということを知っていただきたかったのでこれで終了です。
結論として、辻政信は本当に漫画とか小説のようなヤバい人生を送ったということ。
みなさんも是非今回を機に辻政信について調べてみてください。
因みに私としては
遂行三千里
この本を読むことをお勧めします。
彼の終戦からの自伝です。
是非読んでみてください!
どうも、こんばんわっしょい。
やっとこさ、出張期間が終わり新潟に戻ってきました。
漸くテレビのある生活が戻ってきた〜!
という歓喜の雄叫びをあげながら今夜も更新です。
本日は、「勧善懲悪のはなし」をお送りします。
カテゴリー的には文化なのか!?と思いつつ、まぁなんだっていいかという感じでこれでゴー発進です。
では書いていきます。
「勧善懲悪」と聞くと何を思い浮かべるだろうか?
子供の頃にみたアニメや、好きだったテレビドラマ、はたまた時代劇、あるいは好きな作家の小説等々。
それぞれ思い浮かべるものは違えど、この世の中に勧善懲悪の物語が溢れている。
個人的にも勧善懲悪物のように分かりやすく、スカッとするような話は好きだし、共感してくれる方もいらっしゃるだろう。
しかし、逆に勧善懲悪の物語がめちゃくちゃ嫌いだという方もいるだろう。
そんな、勧善懲悪を深掘りしていきたい。
まず、勧善懲悪の意味について調べてみた。
かんぜん‐ちょうあく〔クワンゼン‐〕【勧善懲悪】 の意味
出典:デジタル大辞泉
善事を勧め、悪事を懲らすこと。特に、小説・芝居などで、善玉が最後には栄え、悪玉は滅びるという筋書きによって示される、道徳的な見解にいう。勧懲。
私がパッと思い浮かべるのはやはり、戦隊モノの物語。悪の組織を撲滅する為に、よく分からない正義の組織(◯◯戦隊)が悪者をこれでもか!と思うくらいボコボコにして、最後は敵が木っ端微塵に粉砕される、という単純明快な物語が毎週づつく。
正直なところ、これではどっちが善玉か悪玉がよく分からないような気もするが・・・。
いやー、でも本当にこういう戦隊シリーズやアニメに関わらず本当に多くの物語が勧善懲悪で構成されている気がする。
数年前に大ヒットを記録したドラマ「半沢直樹」もそうだし、時代劇の中の時代劇である「水戸黄門」も勧善懲悪。
ずっーと、勧善懲悪ブームとも思われるトレンドが続いているということである。
では、いつ頃からこの勧善懲悪が主流になったのだろうか?
これはWikipedia御大に任せよう。
聖徳太子の十七条憲法の第六条に「懲悪勧善。古之良典。」(悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。)と明記されており、聖徳太子以前の古来からこの認識があった。
江戸時代後期の文学作品によく用いられ、特に読本や人情本、歌舞伎などの作品に多く散見される。曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』などが、勧善懲悪の代表作品としてよく挙げられる。
(Wikipedia「勧善懲悪」より引用)
なんと、聖徳太子の時代からこの勧善懲悪の認識はあったのだという。
そして、江戸時代後期にはこの“勧善懲悪ブーム”が始まっていったようにとれる。
私が想像するよりもずっと前から勧善懲悪ブームがあったとは。
江戸時代後期から、物語には「勧善懲悪」がトレンドであったのならばもう私たち日本人には染み付いてる物であることが分かる。
それは勧善懲悪のドラマもヒットするし、勧善懲悪の小説も売れるわけである。
そして、ふと私が疑問に思ったのだが悪玉が悪玉を成敗する物語も世の中には結構あるけどそれも勧善懲悪なのだろうか、そう思って調べたところまたもやWikipedia先生に次のようにのっていた。
勧善懲悪の変形に勧悪懲悪(かんあくちょうあく)がある。勧悪懲悪とは、勧善懲悪において、本来であれば悪に値する存在が様々な理由(猛悪に対する正義心や義侠心の発露、仲間の裏切りや取り分の相違、権力闘争、あるいは助平心など)によって悪と対峙する立場になり、結果的に(他方の視点からして)悪を懲らしめる、という勧善懲悪とピカレスクの融合による応用形。
義賊、強盗、殺し屋、闇金、女衒、詐欺師などが勧悪懲悪の物語では典型的なものとしてある。ただし、単に双方とも悪というわけではなく、主人公側は人情が通じたり、合法的には裁けぬ悪を裁くなど心理的には善、もしくは善寄りであるため、懲罰手段が悪、若しくは所属が悪と同じだけの勧善懲悪であるとも言える。また、勧善懲悪とされるものでも、容赦なく手段を選ばず人情もなく悪人を殺し続ける場合などがあるため、勧悪懲悪との差異は明確ではない。
そういう場合って勧悪懲悪って言うのか!初耳です。
例をあげると
・ルパン三世
・必殺仕事人シリーズ
などなど、様々なものがあることが判明した。
でも、内容的には勧善懲悪と変わらないのであくまでも勧善懲悪の派生パターンというだけか。
いつか、この勧善懲悪ブームから全く違うトレンドが物語の主題に変わっていくときがあるのだろう??
馬鹿の一つ覚えみたいに正義が悪に打ち克つ物語から何か新しいジャンルに切り替わっていく、それはそれで面白そうだしだと楽しみに経過を見守りますか。
さて、特に話を掘り下げた訳でもないが、
本日も眠すぎるので寝ます。
みんなも早く寝よう!
さて、おやすみ。なさい、
やっほー☆
みんな、元気ー☆?
と、テンション上げぎみで始まっております。
昨日は、帰宅時間がめちゃくちゃ遅かったので更新できませんでした。
唯一の当ブログファンからお叱りを受けて反省。本日はしっかりと更新いたします。
今回も歴史関係の話です。
毎回毎回歴史の話で本当に申し訳ないのですが、こればっかりは我慢してください。
何かご要望があればお答えしていきたいと存じます。
さて 、本日は前回の「ミニ歴史!」で扱ったものと関連してしまうのですが
「本能寺の変のはなし」というテーマで執筆していきたいと思います。
お付き合い下さい。
今から435年前の今日、まさに歴史は動いた。
戦国時代、天下布武を掲げた英雄は家臣の謀叛によってこの世から去ることになった。
そう、まさに「本能寺の変」が1582年の6月21日におきた。
誰でも知っている、この本能寺の変によりほぼ天下を手中に収めていた織田信長は討ち死にし、嫡男・織田信忠も死んでしまうという悲しい顛末を迎える。
謀叛を起こしたのはご存知、明智光秀。
今現在も何故、光秀が謀叛を起こしたのかは謎に包まれている。
では、本能寺の変とは一体なんなのか、少し掘り下げたいと思う。
1582年当時、信長は甲州征伐も完了させ着々と天下取りへの道のりを進めていた。
北陸地方には柴田勝家、四国地方には三男・織田信孝と丹羽長秀、北信濃方面には森長可、上野からは滝川一益と、四方八方に攻め入っていた。
謀叛の張本人である明智光秀はというと、甲州征伐の戦勝祝いと駿河国加増のお礼で安土城に徳川家康が来ていた。
その接待役を信長から命じられたのが光秀であった。
家康をもてなしていた光秀だったが、中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉から備中高松城攻めの援軍が欲しいと頼まれ、急遽光秀を派遣することとなった。
信長も中国攻めの為に本能寺で準備していた。
すると、秀吉の援軍に行ったはずの光秀が途中で折り返し京都の本能寺に攻め入った。
信長の軍勢はわずか100人足らず。対する光秀の軍勢は1万の以上という圧倒的な戦力差である。
当初信長も槍を片手に奮闘するのだが、圧倒的な力の差を感じ自身で火をつけ自刃したのだ。
嫡男の信忠も信長同様、秀吉救援のため京都の妙心寺に滞在していたが、秀吉は謀叛の知らせを受け、二条新御所へ移動。そこで前線をするが自刃してしまうのであった。
これにより、光秀はその手に天下を納めたように見えたが、中国地方に遠征していた羽柴秀吉がその一方を聞き、神速で京へ戻って来たのだ(中国大返し)。
京へ戻った秀吉と光秀は山崎の戦いで死闘を繰り広げ、光秀は秀吉の軍勢に敗走。後に、山中にいたところを発見され殺されるのであった。
この後の信長の後継者争いは以前書いたとおり、清洲会議で羽柴秀吉と柴田勝家で対立が起こり結果、秀吉が天下を掌握した。
正直なところ、この本能寺の変には様々な推察があり何が本当なのか分からない。
なのであえて私から何か言及することはしない。
よく言われるのは光秀の恨みの爆発や秀吉の自作自演説など、でも本当のところは謎である。
まぁ、このような流れで本能寺の変が始まりその後の後継者争いへと発展していった。
あれ、ではどうして信長って何処かの城に入城しないで普通の寺なんかに滞在していたんだ?無防備すぎない?
と思われる方いることでしょう。
そんなあなたの疑問を解決しますと、信長は京都への滞在場所は必ずこの「本能寺」と決めていた。
というのも、本能寺は実は軍事的要塞の役割を備えていた点である。
広大な敷地面積を誇り、周囲を掘りで張り巡らし、堀内側には3メートルもの塀があり、当時は僧侶が300から400はいたのだという。
そう、本能寺はほぼ城と言っても差し支えないほどの機能を具備したうってつけの場所だったのである。
さらに、信長は本能寺の変前日にこの本能寺で茶会を開いている。
その理由として、伝説の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」がどうしても欲しかったからであった。楢柴肩衝を所有している島井宗室がこの茶会にくることになっており、それはもうその茶会に誠心誠意をかけていたのだろう。
茶会後は、護衛も少なく100人程度しか居なくなった状況にもなり、この期にうまく光秀に攻められたのだ。
この信長の油断こそが本能寺の変を招いたとも言えるのではないか。
実はそういった経緯もあったのである。
因みに知ってい方も多いが、現在の本能寺は当時とは別のところにある。
現在は廃校となった本能小学校の附近にあったとされ、現在はその場所に石碑がある。
最後に私が言いたいことは、本能寺の変は起こるべくして起こったのかもしれないし、本能寺の変で死ななくてもどこかで討たれていた可能性はたかいと思う。
やはり思うことは信長が討ち死にしたとしても嫡男の信忠が生きていればその後の戦国時代は大きく変わったのだろうと想像はつく。
信忠が生きていた別のところストーリーも非常に面白いのではないかと、私は妄想することしか出来ないが、そういうのも歴史の一つの楽しみ方であると思う。
ぜひ、みなさんも自分の歴史の「if」を探して想像してはどうだろうか。
きっと、面白い世界が想像の先に広がっているはずだ。
はい、ではこれにて本日は終了です。
例によってほぼ寝かけて書いているのでよく私自身も何が何やらわからないのだが、
それは大目に見てやって下さい。
本当に眠すぎてやばい。
寝る寝る寝るね。
おやすみなさい。
次回こそは有益な更新にきしたいと思います。
どうも、こんばんは。
いつも凝りに凝ったブログを書こうとして
時間がないときや眠すぎるときの処置として思いついたのが、この「ミニ歴史!」のコーナーです。
短い文にサクッと興味深い歴史的なことを紹介しちゃうよ!
それでは今回のミニ歴史はこちら。
「むかしより 主(しゅう)をうつみの
野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」
※羽柴ちくぜん=羽柴秀吉 秀吉は筑前守を受領名としていたことから
これは織田信長の三男である織田信孝の辞世の句です。
サクッと織田信孝について説明します。
1582年に信長が本能寺の変にて明智光秀に討たれます。と同時に二条御所で嫡男・織田信忠も討たれてしまいます。
そこで後継者争いへと発展し、
羽柴秀吉が信長の孫の織田秀信を
柴田勝家が信長の三男・織田信孝を
それぞれ推したことで対立してしまいます。
それにより賤ヶ岳の戦いが勃発。柴田勝家軍の敗北、勝家・信孝の両氏は自刃します。
因みに信孝は秀吉の意向で尾張国野間の内海大御堂寺にて切腹させられました。
その時に信孝が詠んだ句が上記の詩なのです。
まず前提として、秀吉は仮にも信長の家臣でありますので、御一門の信孝が主君なのです。
そして、この詩はかつて同じ尾張国野間の内海で主君である源義朝を騙し討ちにして平清盛に首を献じた逆臣・長田忠致の故事にかけたものといわれています。
長田忠致はその後、義朝の子である源頼朝に仕えるわけですが、親の仇である忠致が平氏を滅ぼした際に褒美を欲したそうで、それを頼朝が「美濃尾張をくれてやる」と言い斬首に処したそうです。
この「美濃尾張」は「身の終わり」と掛けてのことでした。
この句も秀吉にもいつかこの故事のように主君(信孝)を討った報いが訪れるぞ、ということを詩にしたものです。
なんとも怖い呪いの句を詠んだものです。
詩のなかの「うつみ」は
・内海
(尾張国野間の内海)
と
・討つ身
をかけております。
ここまで清々しく相手に対しての憎悪などの辞世の句があるとは驚きです。
辞世の句ってもっと晴れやに散る、美しいものだとばかり思っておりました。
まぁ、こんな様な変わった辞世の句もあるんだということを是非頭の片隅にでもインプットしていただけたらと思います。
それでは!
おやすみ!
どうも、こんばんは。
本日もなんとか更新します。
あっという間に土日が終わってしまい、また明日から仕事かぁ、と嘆きたくなるようなこの日曜の夜。
この悲哀をブログにのせて発信できたらなぁ、と思います(実際にはそんなことしません)。
さて、本日は新カテゴリー“文化”から
「花札のはなし」です。
私自身が好きなゲームは何かと聞かれたら真っ先に挙げるのは
「信長の野望!ウイニングポスト!Koei最高!」
と答えますが、果たしてそれでいいのか?
社会人になったのに、そんな何の風情もないテレビゲームを挙げてしまっていいのか?
いや、それは断じて駄目だ。
正しくはこうあるべきである。
「花札にて候。」
これが正解。
こんな風情のある満点解答があるだろうか、いやない。
(深夜なので訳わからん事を書いてるのは承知なのだが、お付き合いください。)
そんな、風情があるゲーム。それが「花札」である。
まぁ、「好きなゲームは何か?」なんて聞かれる事は無いと思うが、「趣味は何か?」と尋ねられた時でも「花札!」と答えたら何かカッコ良くないか。
一味違う、知的な印象を演出してくれるだろう。
今回はそんな花札についてお話する。
まず、花札ってそもそも何なのか、と言うと江戸時代中期に生まれた「カルタ」の一種であり、上流階級の女性たちが嗜む遊びであったという。
本来は外国から入ってきたカルタを日本風にアレンジして、当初は教育用の遊びだった。
絵札を合わせて遊ぶという現代とも通づるルールで当時も親しまれて来たらしい。
花札と言えば賭博のイメージも強いかもしれないが、いつ賭事の対象となったのははっきりとは分かっていない。
ただ、花札が賭博になった経緯として数字のような分かりやすい記号でなく、絵柄だけしか描いていな為に賭博だと分かりにくいという抜け道的な発想から一気に賭博として発展していったのだという。
その賭博性から近代に至るまでずっーと禁止されていたことが判明している。
禁止令が出る度に絵柄を少しずつ変えていき今の花札が成立した。
花札のルールだが正直いって多すぎてここでは一概には言えないが、同じ絵柄をとって得点を競う遊びだと覚えておけばいいだろう。
ローカルルールも非常に多くてなかなか遊び方は難しいゲームの一つである。
そして、花札と言えばやはりその絵柄の美しさに目を惹かれるのではないだろうか。
花札は1月〜12月の札が4枚づつの計48枚で構成されている。
1月から12月まで挙げていこう。
【1月・睦月】松に鶴(マツにツル)
【2月・如月】梅に鶯(ウメにウグイス)
【3月・弥生】桜に幕(サクラにマク)
【4月・卯月】藤に不如帰(フジにホトトギス)
【5月・皐月】菖蒲に八橋(アヤメにヤツハシ)
【6月・水無月】牡丹に蝶(ボタンにチョウ)
【7月・文月】萩に猪(ハギにイノシシ)
【8月・葉月】芒に月(ススキにツキ)、芒に雁(カリ)
【9月・長月】菊に盃(キクにサカズキ)
【10月・神無月】紅葉に鹿(モミジにシカ)
【11月・霜月】柳に小野道風(ヤナギにオノノミチカゼ) 柳に燕(ツバメ)
【12月・師走】桐に鳳凰(キリにホウオウ)
と、こういった種類になっている。
因みに10月の紅葉に鹿の絵柄は、鹿がソッポを向いていることから「シカト」の語源として良く知られている。
この絵柄の種類を見ても本当に勉強になる。
でも、この月と絵柄の種類を照らし合わせた時に何か違和感がないか。
そう、実は花札の月は旧暦なのである。
2月の梅や3月の桜は、今となっては咲いていることもあるがまぁ少し早い。
菖蒲も6月に旬を迎えるし、月は中秋の名月を指している。
恥ずかしながら私は幼少から花札をやっているのだが、つい最近までこの暦が旧暦だとは思わなかった。
でも、この花札のお陰でこの花ってこの季節に咲くんだ、などと勉強になった。
やはり、当初は花札が教育的な意味合いを含めていたのが良く分かる。
花札の絵柄は本当に無駄がなく洗礼された日本の花鳥風月を非常に上手く現していることに感心する。
昔から日本の美的センスは現代と通じるところがあるようだ。
これがアメリカとかなら8月はライ麦で9月はアーモンドとかなのかなぁ、とか想像してしまう。
動物はリスとかプレーリードッグとか描かれるのかなぁとか。
何が言いたいかというと、日本の素晴らしい自然や風景ってやっぱ最高だ!ということ。
日本に生まれて良かった〜。
と思い、特に花札についてあまり詳しく描いてないですが日本人として誇りを実感できたところで本日は終了です。
眠い寝ます。
おやすみ。
どうもこんにちは。
昨日に引き続き、テレビがないとこんなに暇なのか!という休日を過ごし、これはどこかに出かけるのが吉。と判断し本日もアクティブに出かけてきました。
そんな本日は井波編ということで、南砺市は井波の観光スポットでの旅の一コマをお伝えします。
本日は、昨日と打って変わって曇天の空模様。
あまり気分は乗りませんでしたが、折角なので出かけることにしました。
目的地は彫刻で有名な「井波」。
実は私、そういった彫刻とかに興味があるというか、凄く惹かれるものがあったので井波には行ってみたいと以前から思っておりました。
そんなこんなで、「こんな天気だけど、まぁ行きたかったところだし行ってみるか」という面持ちで出発。
借りてるアパートから車で20分もしないくらいで目的地である井波の町へ。
公共駐車場に車を止めていざ井波の街並みを散策開始!
井波のメインストリート?八日町通り
ここが井波の古き良き街並みが残る「八日町通り」。
何と言っても多くの彫刻関係のお店が軒を連ねていました!!
木工細工のお土産屋さんが多かったイメージです。
午前中の割と早い時間だったこともあって観光客はほぼいませんでしたので、静けさが通り一面に張り詰めていました。
その八日町通りを奥まで進むと、突き当たりにあるのが、本日のメインスポット、
「井波別院 瑞泉寺」
場所:富山県南砺市井波3050
井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれました。
外国から送られてきた難解な国書を、綽如上人が解読し、天皇は大変喜び、一寺寄進を
申し出られたと伝えられております。
綽如上人は、多数念仏信者の浄財による建立を希望され、天皇は勧進状を認(したた)
める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可されました。
明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、
広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立され
ました。この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、又越中の一向一揆の
重要拠点ともなった寺院となっていきます。
15世紀末には、井波城と称しました。福光城主石黒氏を破るとともに、井波の町は寺内町として
発展します。16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいます。その後城端北野に
移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。
現在の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本でも
有数の建物です。井波大工の棟梁松井角平恒広を中心に多くの大工、彫刻師が完成させました。
太子堂は、大正7年(1918年)、井波建築、井波彫刻、井波塗師の優れた技を集めて
再建されました。棟梁は松井角平恒信で、大工34人が建築にあたり、7年がかりの大工事でした。
大門(山門)は、天明5年(1785年)、京都の大工によって建て始められましたが、京都本願寺の
再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成したものです。
(井波別院瑞泉寺公式HPから引用http://www.geocities.jp/inamibetuinzuisenji/)
と、まぁこういった由緒のある寺院です。
まず、入って正面にはなんとも勇ましい大門(山門)!
井波別院 瑞泉寺 大門
この大門には数々の細やかな彫刻が至る所に彫ってあり、一見の価値ありです。
その細かさに、当時の職人の仕事ぶりに脱帽でございます。
山門をくぐると受付へ行きます。
拝観料は300円と、まぁ安いくらいのお値段。
受付を済まして正面を見ると、そこには壮大な本堂がドーンと、構えておりました。
井波別院 瑞泉寺 本堂
早速、本堂の中へ入ると中もやはり御立派。
煌びやかな本尊がお出迎えしてくれます。
続いては太子堂と呼ばれる建物へ。本堂から渡り廊下を歩いて行けます。
この太子堂は何と言っても「井波が誇る彫刻のオンパレード」!
撮影禁止の為、写真はないのだが天井近くに15もの様々な彫刻が、そして屋根の付近にも至る所に細かい彫刻がなされていてこれぞまさに井波彫刻の粋を集めた傑作。
日本ではここでしか見れない美しい彫刻が見れました。
その隣の宝物館は当寺社に所縁のある品々が展示されていました。
いや〜、こんな田舎にも隠れ観光スポットがあるんだなぁ、と思い瑞泉寺を後にしました。
井波別院 瑞泉寺 太子堂
井波別院 瑞泉寺 太子堂の彫刻の一部
続いては、八日町通り周辺の細々とした観光スポットをダイジェストで。
①池波正太郎ふれあい館
池波正太郎がこの地に縁があり、書簡などが展示されてました。
②井波美術館
井波が誇る芸術家の作品が多数展示されてました。
③翁塚・黒髪庵
松尾芭蕉の門下が芭蕉の墓から小石を三つと遺髪をここに納めたとか。
小さく、静かな建物です。
ただ、小虫がめちゃくちゃいて不快でした。
上記三つの場所は全て八日町通りに点在してました。
色々拝見しまして、八日町通りを去ることにしました。
続いての目的地は、井波の道の駅。
ここには何と言っても
「井波彫刻総合会館」
がありますので、心を踊らせていざ出立!!
道の駅の敷地内だということもあり、そこそこ観光客で賑わいを見せていました。
ただ、こんな渋い観光地は高齢者しかいませんので本当に終始浮いていました。
で、お待ちかねの井波彫刻総合会館へ!
井波彫刻総合会館 入口
入館料は500円。入館手続きをすまして中に入ります。
館内は撮影禁止だったので、残念ながらお見せできませんがあんな彫刻やこんな彫刻まで、それはそれは多数の芸術作品が展示されておりました!!
ここには井波彫刻協同組合のみなさんの作品により構成されていて、小さな彫刻から特大彫刻まで組合のみなさんの本気(マジ)がそこにはありました 笑・・・。
全てに値段が付いていることにも驚きました。
高いものでは数百万円という、驚きプライス。
これぞ、最高峰の彫刻家の技を五感を通して体感しました。
木の芸術っていいですね〜。心が和みますし、その彫刻の匂い。
兎に角いいですね〜。
井波彫刻の技術力の高さを見ることができました。
と、こうして井波のたくさんの観光スポットを巡ったところで本日の旅は終了。
こういった、隠れマイナー観光地もいいものですね。
こういった芸術は歳を追うごとに見方や感じ方が変わってくると思いますので、是非何年後かに訪れたいです。
さて、多くの芸術に触れてインスピレーションを得れたことで仕事にも何か繋げるぞ〜!
といったとこで、今回の歴史探訪は閉幕します。
ご閲覧ありがとうございました。
どうもみなさんこんばんは。
本日は番外編も含めて2回目の更新です。
暇を持て余している熱狂的な当ブログファンの要望で暇な時は複数回の記事を書こうと思います。果たしてちゃんと見ているのかなぁ。
そんな本日は「化け猫のはなし」です。
今回お話する話は普通に化け猫の話をしてもあんまり面白そうではないので、「鍋島の化け猫騒動」について話そうと思う。
まず、「鍋島」というのは高校の時日本史の科目をとっていた人や戦国時代好きな方なら分かるだろう。
鍋島は鍋島藩、つまり佐賀藩のことを指し高校の教科書では明治維新の時に活躍した雄藩として登場する。当時の佐賀藩主の鍋島直正が役人の削減や借金の棒引及び割賦50年認めさせることなどの財政改革、そして藩校・弘道館を設立し教育改革を行ったりと様々な藩の改革を行い、尽く成功させたことで歴史に名を刻んだ。「薩長土肥」の肥はまさしく、肥前国である佐賀藩のことでそれほど明治維新に目覚ましい活躍を果たした。
戦国時代が好きな方は、「ああ、龍造寺から家を乗っ取ったあいつか」と思うのではないだろうか。戦国時代にはその佐賀藩の藩祖である鍋島直茂が有名。信長の野望でも非常に優秀な武将で、使い甲斐がある。
おっと、信長の野望の話は今は関係無かった。危うく大好きな信長の野望の話に逸脱するところだった。
その「鍋島」の化け猫騒動に今回は焦点を当てよう。
鍋島藩が成立する少し前、戦国時代からこの騒動の経緯をお話する。
戦国時代に肥前を治めていたのは龍造寺氏という九州地方では珍しい国人から下克上で成り上がりを果たした大名家の一族。中でも龍造寺隆信の頃に全盛を極め、あの島津家と並ぶほどの勢力を確立させた。
しかし、龍造寺隆信は1584年の沖田綴の戦いで有馬・島津連合軍に敗れ討ち死にをしてしまう。
その当時、龍造寺家の家老だった鍋島直茂は龍造寺隆信の死により次第に龍造寺家の実権を掌握していく。
龍造寺隆信の嫡男である龍造寺政家が跡を継ぐのだが、朝鮮出兵の直茂の活躍などにより龍造寺家臣団は政家ではなく直茂の方に傾倒していくなど、徐々に直茂の傀儡となっていった。
そういったこともあり、政家と直茂の不和が生じるようになる。
結局実権を直茂、そして子の勝茂(初代・佐賀藩主)に完全に奪われ佐賀藩は名を龍造寺、実は鍋島という二重体制が確立されてしまう。
政家は程なくして隠居をし子の龍造寺高房が跡を継ぐ。その高房は実権を龍造寺の元に回復させるために奔走するが、結局失敗に終わりこれに憤慨した高房は自殺未遂をする。一命をとりとめたもののその傷が元で死んでしまうのであった。
すると、その死後すぐに隠居していた父の政家も死去。これにてお家は断絶してしまうという悲劇で龍造寺家は終焉を迎えてしまった。
それ以来、龍造寺の残党が佐賀城下の治安を乱し、直茂は龍造寺の霊を鎮めるために天佑寺を建立した。
そして、この史実である「鍋島と龍造寺の遺恨」が後述する「化け猫騒動」への遠因というか、発端となる。
少し時代は経過し、二代佐賀藩主の鍋島光茂の時である。光茂の碁の相手をしていたのが家臣の龍造寺又七郎という者であった。
又七郎はその碁の最中に、光茂の機嫌を損ね、なんと、惨殺されてしまうのである。
又七郎の母親も飼っていた“猫”に胸中の悲しみを吐露し自殺をする。その猫が自殺した又七郎の母の血を嘗めて「化け猫」となり佐賀城の光茂を毎晩苦しめたのだという。
それを家臣の小森半左衛門が退治し、光茂を救い鍋島家は事なきを得た、という伝説が今に伝わる「鍋島の化け猫騒動」なのである。
前述した「鍋島と龍造寺の遺恨」が想像上の猫の化け物である化け猫の怪異で表現され、このような化け猫伝説が生まれたらしい。
さらに、後世にこの両家の遺恨が脚色されて
このような怪談へと発展したものだと考えられている。
そして、これは後に芝居化や講談、実録本として広く知れ渡り現代にも「鍋島の化け猫騒動」として伝わっている。
先日の6月15日の佐賀新聞にこんな記事が載っていた。
「佐賀に人魚伝説?! 鍋島家ゆかりの寺に謎の掛け軸」
佐賀に人魚伝説? 佐賀市本庄町の東光寺に、年老いた「人魚」を描いたとみられる謎の掛け軸がある。胸から下は魚、肩口までうろこをまとったその姿は、確かに人魚。笑っているのか、むき出しになった牙の隙間から真っ赤な舌がのぞき、目を見開いて振り返る様子は、見る人が声を上げるほど、おどろおどろしい。
「いつ誰が何のために描いたものか、全てが謎」と住職の三浦祥善さん(68)。絵に落款はなく、裏側は白紙で日付も作者の名前もない。
東光寺は佐賀藩祖・鍋島直茂の父清房の代まで祖先供養する氏仏(うじぼとけ)として崇敬され、その後も直茂が薬師堂や厨子(ずし)を建造するなど、鍋島家とゆかりが深い。
かつては絵が見えにくいほど表面が黒ずんでいた。20年ほど前に「どう描かれているのかよく見てみたい」とクリーニングで汚れを取り除いたところ、舌の鮮やかな赤色が現れ、「不気味な容姿にあらためてびっくりした」という。
(佐賀新聞 2017.6/15 より引用)
どうだろう。恐るべき佐賀藩。
化け猫伝説に続いては「人魚伝説」。
あぁ、恐ろしい佐賀藩。化け猫なんて序の口かも、、、?
ふぅー。初夏には少し早く不気味なホラー話を今回取り上げました。
え?別に怖くないって?
そんなことおっしゃらないでくださいよ。
でもね、本当に怖いのは妖怪でも幽霊でもなく、人間なんですよ・・・。
もしかしたら佐賀は妖怪の宝庫なのかもしれませんね。
私も佐賀には行ったことありませんので機会があれば佐賀へ行ってみます!
(吉野ヶ里遺跡とか 笑)
この夏はみなさんも冷んやりしにホラーな伝説の宝庫、佐賀へ!!
それではまた明日。
プロフィール
HN:
ワタナベ
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