ナベログ!
ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうも〜
みなさんお元気ですか。
私は元気です。
今日も少しだけ書くぞ〜
今日もミニ歴史です。
ほぼほぼ、日本史ブログの体をなしてきましたがご容赦願います。
これを機にみなさんも日本史が好きになってください。
そんな今日は題して
「八丈島に流された男」 です。
「八丈島に流された男」というのは戦国時代の大名でありました「宇喜多秀家」の事です。
なぜ八丈島に流されたのかは後で言及します。
その前に少しだけこの宇喜多秀家という男についてお話します。
1572年に備前国・岡山城主でありました宇喜多直家の次男として生を受けました。
生まれは戦国時代も終盤に差し掛かっているような時であり、結構遅くに生まれたんですね〜。
1581年に父・直家が病死、1582年に家督を継ぎました。
当時宇喜多家は織田信長に従属していた時代であり、中国平定の羽柴秀吉軍に組み込まれ宇喜多家の家臣は備中高松城攻めなどに協力しました。
しかし、家督を継いだその年に本能寺の変が起こります。信長が死に、秀吉は急ぎ毛利家と和睦を結びます。
その毛利家の監視役として秀家は備中・美作・備前の所領を安堵され大名となるのでした。
その後、元服し秀吉から「秀」の字を与えられて秀家と名乗る訳です。
宇喜多家は外様であるにも関わらず、秀吉の寵愛を受け、なんと秀吉の猶子(他人の子と親子関係を結ぶ制度のこと)となり一門衆の扱いを受けました。
小牧・長久手の闘いや、紀州征伐、四国攻め、九州征伐、小田原征伐へと転戦・活躍し、朝鮮攻めに際しては大将として出陣し活躍しました。
当時は父の岡山城を拠点として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領し、官位も1594年には参議から従三位権中納言に昇叙されるなど、超がつくほど順風満帆。
1598年には五大老の一人に任ぜられ、最早その力は最高潮に達します。
しかし、そんな順風満帆な時代もすぐに終わりを迎えます。
1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
秀家は西軍に与し、西軍の主力として出陣することとなりす。
しかし、結果はご存知の通り西軍の敗戦。
敗走し、京都に潜伏し、その後は同じ西軍の島津を頼り鹿児島まで逃げます。しかし、「鹿児島の島津が宇喜多を匿っている」という噂が広まり、徳川家康に身柄を引き渡されるのです。
西軍の主力として積極的に戦った秀家はもちろん処刑されるはず・・・ でしたが、身柄を仕方なく引き渡した島津忠恒、親戚の前田利長の懇願により死罪を免れて駿河の久能山へ幽閉されました。
そして、1606年に公式では史上初の八丈島への流罪となるわけです。
57万石の大大名から八丈島への流人・・・。
壮絶な人生ですね。
流された当時は年齢でいうと34歳、まだまだ若くこれからという時に八丈島生活という悲しい顛末。
八丈島の生活は苦しいものでしたが、なんとか色々な人の支援を受けて生活したようです。
そして、月日は流れなんと八丈島で50年も生きるのです、、、!
1655年に亡くなりました。
これは関ヶ原の戦いの参戦した大名で一番最後に亡くなったということになります。
超長生きです。
この後、宇喜多家は滅亡しますが、その子孫が脈脈と血を残し今では八丈島の秀家の墓を子孫が守り続けているようです。
いかがでしたでしょうか、波乱万丈な「これぞ戦国武将」というような人生を生き抜いた武将宇喜多秀家は。
関ヶ原の戦いで負けたのにも関わらず、戦った大名で一番長生きとか、面白いですね。
八丈島での生活は質素そのものであったと思いますのでやはり、人間は質素な生活が長生きする秘訣なのでしょうかね?
私も質素な生活で長生きしたいものです!
みなさんも宇喜多秀家のように、質素な生活で長生きしましょう!
塩分の取りすぎは禁物!!
それではまた、明日!!
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みなさんお疲れ様です。
本日は七夕!
よく小学校の時とかには給食で七夕ゼリー的なものが出てきたイメージがあります。
社会人にもなると「七夕」と、あまり実感するようなこともなくふと日付をみて思い出しました。
みなさんはどうでしょうか?
さて、本日はミニ歴史を書こうかと思います。
七夕だから七夕に関連した事とも思いましたけれど、あんまり思い浮かばなかったので明日にでも書くかも?
なのでそんな本日は有名どころから、題して
「三本の矢」 です。
それでは書いていきます。
戦国時代の有名な逸話の中に
「三本の矢の教え」という話があることはみなさんもご存知だと思います。
概略を申し上げますと、
《晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。》
(Wikipediaより引用)
上記のようなお話です。長いのでWikipediaから引用したことをお赦し下さい。
つまりは、
三本(さんぼん)の矢(や)の教(おし)え の意味
出典:デジタル大辞泉
戦国武将の毛利元就が、子の隆元・元春(吉川氏に養子)・隆景(小早川氏に養子)に授けたという教え。一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。三矢の教え。
(https://www.google.co.jp/amp/s/dictionary.goo.ne.jp/amp/jn/92091/meaning/m0u/より引用)
この最後の行、【一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。】この訓話を意味しています。
素晴らしい話だなぁ、と思いますよね。
名門・毛利家の強さを象徴したようなお話ですね。
この有名な「三本の矢」は最近でもある方によって使われましたよね。
そうです、安倍晋三首相。
数年前に“アベノミクス”として「三本の矢」を掲げたわけですけど、このアベノミクスの三本の矢も毛利家の三本の矢からとっているんですね。
ですが、この話って《創作》だったって知ってましたか?
実は毛利元就がこのような事を息子たちに話したという事はどの文献にも書かれてはいないんです。
では、何故この話が広まり有名になったのか?
それは、毛利元就が書いた『三子教訓状』という文章にルーツがあります。
元就が60歳を越えていた時、3人の息子に一致協力して毛利宗家を盛り立てていくように14条の教えを書いています。
この14条の教えを基にして「三本の矢」のエピソードが生まれたとされています。
実は創作だったってショックですよね。
しかし、毛利家は吉川元春・小早川隆景の尽力もあり中国地方を平定することができたのです。これは何と言っても兄弟三人の協力があったからこそ、ではないでしょうか。
因みに毛利家を継いだ毛利隆元は実は父・元就よりも早くに亡くなってしまうんです。なのでやはり元春、隆景のいわゆる「毛利両川」の力は強大だったということですね。
秀吉に天下を統一されてからは小早川隆景は五大老の一人に任命され、秀吉の正室である高台院の甥であった「羽柴秀俊」を養子として迎えます。それほど、秀吉にも重宝されていたのですね。
(「羽柴秀俊」は後の「小早川秀秋」です)
また、毛利元就の孫、つまり毛利隆元の子であった毛利輝元も五大老の一人に任命されていることから、豊臣政権にとって毛利家は大きな影響を及ぼし、それほどチカラがあったということです。
改めてこういうことから推測しても、三人が協力してこれほどの地位まで上り詰めたということですかね。
サンフレッチェ広島の「サンフレッチェ」は三本の矢という意味から来ているということも最後に豆知識として書いておきますね。
さて、本日はこれにて終了。
おやすみなさい。
どうも、みなさんこんばんわ〜。
本日も更新します!
昨日は帰ってきてから爆睡してしまってかけませんでした。
そういう時もありますね、人間だもの。
さて、7月に入って少したちひしひしと暑くなってきました。新潟でもこんなに暑いのですから都市部ではもっと暑いのですかね。ゾッとします。
さて、本日は「鯱のはなし」です。
それではいきます。
城の天守を見ると必ずあるのが「鯱」。
因みに「鯱」一文字でシャチホコと読む。勿論、シャチとも読む。
天守が復元されていたり、現存している城には大体この鯱が天守にのっているのではないだろうか。
例えば、一番有名な名古屋城の金鯱をはじめ大阪城、姫路城、高知城、熊本城・・・
などなど、国内でも数々の鯱を見ることができる。
あの鯱という生き物は「海のギャング」の、異名をもつあの「シャチ」とは実は別の生き物ということは知っていたであろうか?
(あのイルカとクジラの中間のような海洋生物)
あまり気にしたことはないかもしれないが、天守の鯱と海の鯱とは全く別物。
天守で悠然と泳いでいるあの「鯱」はなんと、想像上の生物である。
顔に注目して見ると、あれ?なんかあのシャチじゃないな? と感じると思う。
天守の鯱は姿こそ魚のフォルムなのだが、頭は虎なのだ。
虎に見えないけど虎なのだ。言われてみれば確かに虎っぽくもあるが・・・。
では、なぜそのような想像上の生き物が天守にのっているのだろうか。
それは、鯱が水を吹く魚という伝説に由来している。
つまり、城の火除け、そして防災のおまじないのようなものであったのだ。
建物の正面に向かって、右がオス、左がメスと決まっていてよく見るとオスの方が若干大きく作られているのだという。
そして、オスは口を開け、メスは口を閉じている。(つまりは阿吽!)
イメージとして沖縄のシーサーや神社の狛犬とほとんど同じ。
設置している意味合いも魔除けや守り神的なものなので、「天空の狛犬」だと考えて欲しい。
一番有名な名古屋城の鯱は金ピカの金鯱だが、一般的には瓦か石、それか銅製で作られている。
名古屋城の鯱が金の理由は1607年に徳川家康が九男・徳川義直を尾張六十二万石に封じ、諸大名に命じて名古屋城の築城工事(天下普請)をさせたときに
①徳川家の威光を天下に示す為
②普請させる外様大名にさらに資金を使わせる為
の2つの理由があるとされる。
さすが、策士・家康。
抜かりないアイデアをする。
このようにして、名古屋城の鯱は金色になったのであった。
今後、名古屋城も現在の鉄筋コンクリート造で復元されたものから、木造への修復の工事が計画されているが(鉄筋コンクリートが壊されるのは個人的に非常に悲しいものがありますが)、木造で復元された暁には当時のままの名古屋城に当時のような「金鯱」がのるのを見て見たいものである。
ぜひ、その際には家康も見たその名古屋城を目に焼き付けてはどうだろうか?
(そのときには本丸御殿も行こう!)
どうでしたか?鯱のことがよくわかりましたか?
鯱は怖い顔もしてるように見えますが、よく見ると可愛いですよね。
もっと、キュートに作れば人気が出そうですね。
私も将来家を建てることができれば鯱を屋根に付けたい!と思います!
その為に明日からも頑張って働きます。
そんな、鯱の話でした。
それではまた。
good night!
どうも、みなさん。
お疲れ様デストラーデ。
本日も無事に更新します。
お付き合い下さい。
そんな本日ほミニ歴史としまして
「服部半蔵只今見参!」
というタイトルで執筆します。
それではどうぞ。
「服部半蔵」というと、多くの人は忍者を想像するのではないでしょうか?
でも、実際には服部半蔵って忍者ではなかったって知っていましたでしょうか?
そして、この「服部半蔵」という名前は襲名制であったということもあまり知られていないでしょう。
なんと服部半蔵は戦国時代から江戸時代にかけて数人いたのです。
ではなぜ、「服部半蔵」が忍者の代名詞になったのかと言うとそれは初代の服部半蔵まで遡ります。
「服部半蔵は忍者ではない」と先ほど申し上げましたが、これは訂正します。
「服部半蔵は“ほぼ”忍者ではない」というのが正確ですね。
というのも初代・服部半蔵保長は伊賀出身の忍者でした。初めは室町幕府の12代将軍、足利義晴に仕え、後に松平清康に仕えました。
そう、初代だけは忍者でした。
その保長の子が「服部半蔵正成」でした。正成はこの服部半蔵の中で一番有名な服部半蔵であり、この方のおかげでこれほど有名になったのでしょう。
服部半蔵正成は、徳川家康に仕える武将でした。
父が伊賀出身ということもあり、伊賀同心の配下をつけられました。
つまりは、忍者を率いるリーダーのようなポジションで活躍します。
正成は家康の懐刀として重宝され、後に徳川十六将の一人として名を連ねます。
また、槍の名手としてもよく知られており武勇に秀で「鬼半蔵」の異名を持っています。
よく言われる例えですが、分かりやすく説明すると徳川社の忍者課の課長のようなものと考えていただければ分かりやすいかと思います。
家康が関東に転封後に、東京のあるところに屋敷を建てたことから彼の名に因んだ名前の地名があるのですが分かりますでしょうか?
そう、地下鉄の路線名にもなっている「半蔵門」という地名が服部半蔵正成から名付けられているのです。
正成以後、服部半蔵は継承され江戸末期まで居たとされます。
しかし、今の服部半蔵のイメージはこの2代目の活躍によるところが多く。
やはり服部半蔵正成の活躍がいかに目覚しかったかが分かりますね。
さて、今日は少し早いけどこれにて終了です。
また明日!
どうも、みなさん、こんばんわに(ガォ〜)!
本日も元気に更新です。
本日は新潟は土砂降り、しかも丁度出社、退社のタイミングでものすごく降られてしまい散々な日でした。
みなさんはいかがだったでしょうか。
さて、そんな本日ですが題して
「公卿・公家のはなし」 です。
それではいきましょう。
公卿・公家というとみなさんはどのような人物を思い浮かべるだろうか。
時代劇に出てくる麻呂のような人物や、アニメおじゃる丸の主人公・おじゃる丸みたいなものを想像する方が多いかと思われる。
勿論、そのイメージはほとんど正解なのだが、では実際に公卿とか公家って具体的になんなの?とお思いだろう。
なので、今回は少しこの公卿や公家にクローズアップして深掘りしてみようと思う。
く‐ぎょう〔‐ギヤウ〕【▽公×卿】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 公 (こう) と卿 (けい) の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。「大臣公卿」と連ねていう場合は、卿のこと。公家。上達部 (かんだちめ) 。月卿 (げっけい) 。卿相 (けいしょう) 。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/60812/meaning/m0u/より引用)
これが、公卿の説明。
く‐げ【▽公家】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 朝廷に仕える人々。公家衆。
2 朝廷。朝家。おおやけ。
3 天皇。主上。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/60892/meaning/m0u/より引用)
そしてこれが公家の説明。
この2つの言葉を並べただけでは分かりにくいと思うのでここから解説をする。
まず、【公家】であるが元々は天皇や国家などを意味する「公(おおやけ)」を意味するもので、それが次第に朝廷の上層の官人を指すようになった。
源氏や平氏のように武士が台頭するようになると【武家】に対するかたちとして【公家】という意味あいが強くなったとされる。
そして、【公卿】は【公家】の中でも官位の高い官人のことを指した。一般的に【公卿】は天皇直属である「太政官※」であり、国政の中心の存在であった。つまりは、【公家】は総称であり、その中に【公卿】と呼ばれる官人がいると考えていただきたい。
《※だいじょう‐かん〔ダイジヤウクワン〕【▽太政官】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 律令制で、神祇官 (じんぎかん) と並ぶ中央の最高行政機関。八省以下を統轄して政務を行った。長官は太政大臣で、これに次いで左右大臣があり、のちに内大臣が置かれた。事務局として少納言局・弁官局が付属した。おおいまつりごとのつかさ。》
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/133483/meaning/m0u/より引用)
因みに公卿は官職でいうと、「摂政」、「関白」、「太政大臣」、「左右大臣」、「内大臣」、「大納言」、「中納言」、「左右近衛大将」までが定められていた。官位でいうと、一位から三位(官位は九位まで)までが「公卿」と呼ばれていたのだ。
四位以下は「公卿」ではなく普通に「公家」と呼ばれていた。例外として、四位の「参議」のみはみなしで「公卿」として扱われていたようである。
少し整理してみると、
【公家】➡︎天皇に使える者(官位に関わらず全員)
【公卿】➡︎公家の中でも官位が三位以上の者及び参議の者
ということになる。
前述したように、【武家】に対しての【公家】であるから中世の武士たちは官位を貰っても【公家】という呼ばれ方はしないのが一般的である。
また、公家と似たような言葉で【貴族】という言葉もあるが、いい機会なので少しこちらも見ていこう。
き‐ぞく【貴族】 の意味
出典:デジタル大辞泉
1 身分や家柄の尊い人。また、社会的な特権を世襲している上流階級に属する人。明治憲法では華族といったが、第二次大戦後消滅。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/52370/meaning/m0u/より引用)
これでは少し解りづらいか。
もっと具体的に言うと、【貴族】と呼ばれるには官位で五位以上を与えられたものを指す。
従って、「従五位下」までの官位を賜われた者は【貴族】と呼ばれたのである。
官位についてハテナ?の人がいらっしゃるかと思うが、簡単に言うとその人の社会的ランクであると認識をして欲しい。
この【貴族】は実は官位が五位以上であれば誰でも貴族と呼ばれるので「公家=貴族」ではない。
つまりは、武家でも貴族と呼ばれていたのだ。
武士で貴族というのはあまり想像がし難いと思うが、戦国時代や江戸時代には武士でも貴族が、たくさんいたのである。
関連して江戸時代に【公武合体】という政策を行うが、
こう‐ぶ【公武】 の意味
出典:デジタル大辞泉
公家 (くげ) と武家。また、朝廷と幕府。
こう‐ぶ【公武】の慣用句
こうぶがったい【公武合体】
江戸末期、朝廷と幕府とが一致して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。大老井伊直弼(いいなおすけ)の死後、老中安藤信正らが主張、和宮(かずのみや)降嫁が実現したが、のち、戊辰(ぼしん)戦争で討幕派に圧倒された。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/74878/meaning/m0u/より引用)
このように公家と武家を婚姻関係で結び、公武一帯で幕府を立て直しを図っていこうとしたことである。
この公武合体の意味を知ると明確に公家と武家で分かれていたのが分かるだろう。
と、色々と話も飛躍しすぎた感はあるが少しでも【公家】や【公卿】そして【武家】との違いがお分かりであろうか。
今回は特に意味なんて覚えなくて結構なので、これらの言葉はそれぞれ似ていても違う言葉なんだと、覚えていただければ幸いである。
個人的に私は「官位」について非常に関心があり(官位マニアです)、今回も官位の話が出たのでもっと話そうと思ったのだが今回はやめとこうと思う。これもまた別の機会に。
さてさて、本日は以上でございます。
似た言葉でも明確な違いがあるんですね〜。
これでみなさんも、日常で公家と公卿の使い分けができますね!
あ、そんな言葉使うことないか!
でも、現代でも「貴族」という言葉はよく使いますので街を歩いている時に「鳥貴族」の店舗を見かけた時には「あ、この鳥って貴族なんだ。官位は何位で官職はなんなんだろうか。弾正大弼くらいかな?」とか妄想して見てください。
え?そんな妄想しないって?
みなさんも官位の奥深さを学べばきっとそのような日が来ます。
是非この機会に官位・官職についても調べて見てください。
官位一覧表
このリンク貼っときますので見てみると面白いですよ。
それでは寝ます。
おやすみのむし(蓑虫)。
どうも、みなさん。
こんばんわ。
7月に入りまして暑い日が多くなってきましたがみなさんはどうでしょうか。
新潟も例外なく暑いです。
そんな本日は私の趣味の1つである読書から、お話を1ついたしましょう、ということで少しおすすめ?の読書スタイル?についてお話できたらなぁと思います。
そんな本日は
「岩波文庫のはなし」
です。それではいきます。
まず、みなさんは岩波文庫とは何か知っているだろうか。
岩波文庫というのは株式会社岩波書店が発行している文庫本のレーベルのことで、日本で初めての文庫本シリーズとして知られている。
私は学生時代に書店でアルバイトをしていたこともあり、書籍のことについては割と詳しいので「岩波文庫」と聞くとすぐに想像ができるのだが、あまり本について興味がない人は岩波文庫自体が分からないだろう。
分からない方岩波文庫はこのリンクを踏んで岩波文庫公式のページに行けば「ああ、これか!見たことある!」と思うだろう。
あの独特な文庫の表紙。たまらないですね。
シンプルというのか、規律がとれているというのか。
凄く知的好奇心をくすぐる様な無機質すぎるくらい無機質なデザインは最早、芸術の域に達しているだろう。
因みにどうして岩波文庫の紹介をするかというと、丁度1週間前のTBS系列のテレビ番組「林先生が驚く初耳学!」で、林修先生が「岩波文庫がしっかり置いてある書店はいい書店だ」と言っているのを聞いて、
この話をいつするか?
「今でしょ!」
と思った次第である。
と、そんな下らない話は置いといて、次に進む。
そんな岩波文庫だが、読書に慣れていない方には取っ付きずらい。
というのも、岩波文庫は古典的な文学作品や外国文学、美術書や宗教関係の本などが収録されており普段本を読む私でも労力がいるものが多数ある。(私は歴史や宗教、民俗学くらいしか読まないが)
なので、そんなに読書に慣れていない人や苦手だけど興味がある、という方におすすめの岩波文庫読書術?をお教えしたいと思う。
それは簡単!岩波文庫を無理やり一冊読もうとするから続かなかったり、飽きてしまうのだ、だから『岩波文庫解説目録』を読めばいいのだ!
岩波文庫解説目録ってなんだ?と思う方は簡単に入手出来るのでゲットしてほしい。
岩波文庫解説目録
この上記のリンクをからPDF版でも読めるし、大きな書店に行けばテイクフリーで入手できる。
因みに私は新宿の紀伊国屋書店で入手している。
解説目録なので、全岩波文庫についての目録なのだが、それについて少し解説が書かれている。
他の書店の文庫本にもこういった類の解説目録はあるが(例:ちくま学芸文庫・講談社学術文庫など)やはり岩波文庫のようなポピュラーな古典文学作品の解説目録だけあって歴史的に有名な本や、竹取物語のような日本の超有名古典についても解説が載っているので、面白い。
では、何冊かの本について解説目録を抜粋してみたい。
ではまず有名どころから
夏目漱石 『我輩は猫である』
猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は『坊っちゃん』とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言葉の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石となった。
この数行の解説が載っている。
前半は作品のあらすじ、後半は作品のテイストの紹介のようにこんな感じでどの文庫も掲載されている。
他には
『源氏物語』
主人公源氏の胸中に深く刻まれた継母藤壺への思幕を出発点として、栄光と寂寞の生涯を辿った四十四帖。そして息子薫の世界を描く宇治十帖。始発から終末まで七十年余の時代を追うこの物語には王朝文化の粋が結集され、後世に絶大な影響を与えた。三条西実隆筆青表紙証本を底本とし、複雑な文脈を解きほぐす注を施す。
と、源氏物語はこのような解説が。
源氏物語ってそういう物語なんだ、というのが分かる。
このような感じでこの少しに文に詰まった解説を読むことでその本のちょっとしたあらすじを知ることが出来き、またその作品の歴史的価値などが分かって勉強になる。
また、少しは読んだ気になる。
なにより、この解説を知ることによりその作品に興味が出てくるかもしれない。
それこそが、読書をする上で大事なことである。
なので、ぜひこの『岩波文庫解説目録』をお手元に用意してそれぞれの解説を読んでみよう。
今まで知らなかった多くの作品を知ることができるだろう。そして、実際にその本を手にとってみようと思うだろう。
そこまでくれば自然に読書を最後まで継続して行えると思う。
まずは自分にとっての読んでみたい一冊を探してそこから読書の扉を開いてみるのはどうだろうか。
無趣味の私はそれで、読書という趣味を継続できているのでいい読書術?なのではないかと考える。
ぜひ、皆さんのベスト岩波文庫を見つけてみませんか?
ということで本日は終了です。
本当に岩波文庫は難しい作品が多くて読むのに苦労しますが学ぶことが多くて本当にいい文庫です。
読まず嫌いが1番もったいないことだと思います。
少しでも読書に興味があればおすすめです。
レッツ読書!
おやすみんみんぜみ!!
(そろそろ蝉が鳴く季節です。暑さに負けるな!)
どうもみなさんこんにちわ。
なんと今年ももう本日で1年の折り返しです。
早いものですね〜。
そんな本日は諸事情により更新できなかったので日付をバックデイトして不正更新です。
そんな本日はミニ歴史をお送りしようと思います。
今日のタイトルは
「お家存続の秘策」 です。
話は遠い昔の戦国時代。
各国の戦国大名達は、群雄割拠の戦国時代をいかに生き残るか、そしていかに家を存続するかが最重要なことでした。
大名家に男系の嫡子が生まれない、唯一の嫡男が戦死・病死してしまう、など様々なことで大名家の家の存続が途絶えてしまいます。
そんな中で3つの大名家のお家存続の秘策を本日はご紹介します。
実はこの三大名家全て同じ時期に同じ秘策を使って未来に家を残しております。
ではでは、その秘策とは!?
まず、1つ目の家は昨年2016年の大河ドラマで一層有名になった【真田家】です。
現在の長野県の小県郡の周辺を所領としていた大名家です。
大河ドラマ『真田丸』を観ていた方や、真田家の経緯について明るい方はこの秘策をよくご存知だと思います。
時は1600年関ヶ原の戦い。
東西で天下分け目の大戦が始まろうとしていたわけです。
この時の真田家は当主は「真田昌幸」という戦国屈指の策略家。
昌幸には2人の息子がおりました。
長男が「真田信之」、次男が有名な「真田信繁(幸村)」です。
関ヶ原の戦いは豊臣秀吉恩顧の石田三成(総大将は毛利輝元)vs五大老の筆頭の徳川家康、
という構図というのはみなさんも学生時代に学習したところだとは思いますが、実は真田家は少し複雑でした。
従来、真田家は豊臣秀吉に忠誠を尽くし自身の所領を安堵された経緯があります。また真田信繁(幸村)は豊臣秀吉の馬廻衆(側近のようなもの)として活躍していました。さらに、真田家と徳川家は因縁があり何度も戦をしています。
そういった理由から真田家は徳川家を支持する、というより豊臣家、三成を支持するのは必然なものがありました。
(そもそも関ヶ原の戦い自体が、豊臣家臣団の内紛ではあるが)
しかし、長男の信之は徳川家康の養娘を娶っておりました。その為、信之は徳川家につかざるを得ない状況下にありました。
そこで、真田家は親子3人で合議をします。
出した結論は昌幸・信繁を西軍(三成側)、長男・信之を東軍(家康側)に分かれて出陣する、というものでした。
勿論上記の複雑な理由があったにせよ、戦国時代は裏切りの時代。そんなものは裏切りってしまえば終わりです。
そして、今回のタイトルの通り、真田家は「お家存続の秘策」としてどちらか一方が負けてももう一方を存続させる決断をしたのです。
結果として東軍勝利に終わり、信之はその後真田家を存続させることに成功したのです。
これは真田家の秘策のおかげでしょう。
そして2つ目の家は【九鬼家】です。
耳にしたことがない方もいらっしゃると思いますが、この九鬼家、実は海賊として有名な大名家でした。
九鬼家は当時の志摩国、現在では三重県の一部を所領としていました。
戦国時代には九鬼嘉隆が当主でした。
嘉隆は織田信長・豊臣秀吉のお抱えの「水軍」として各国に猛威を振るっていました。
そんな九鬼家も1600年の関ヶ原の戦いで「お家存続の秘策」を繰り出します。
1600年当時、当主であった「九鬼嘉隆」はその3年前の1597年に隠居し息子の「九鬼守隆」に家督を譲っていました。
九鬼家も東軍・西軍、どちらに与するか迷います。
迷った末に嘉隆は結論を出します。
嘉隆は西軍に与し、守隆は東軍に与す、というものでした。
やはり、前述している真田家と同じ方法です。
どちらかが負けても家を存続させるように、と・・・。
西軍に与した嘉隆は鳥羽城の奪取、そして安濃津の戦いに勝利するなど活躍をしますが、結局西軍は敗戦。自害します。
一方、守隆は東軍として勝利。戦後生き延び初代鳥羽藩主となりました。
この九鬼家もこの策が功を奏してお家を存続させることができたのです。
最後に3つ目は【津軽家】です。
“津軽”という言葉でピンとくるかもしれませんが、その名前の通り現在の青森県の戦国大名家です。
この津軽家は津軽為信の時代に所謂、下克上を成功させ大名へと成り上がりました。
この津軽の成り上がりの話も面白いのでまたの機会にお話でもしましょう。
津軽家の関ヶ原の戦いはどのような状況だったのか、少し見ていきましょう。
元々、前述した津軽が大名家へと下克上を果たした時に当時の天下人であった豊臣秀吉には大名としてその所領を認められてなかったんです。
その津軽家の当主・津軽為信は豊臣家の奉行であった石田三成を介して秀吉に謁見。そして所領を安堵してもらうのです。
しかし、その後に隣国の南部家が惣無事令(秀吉に許可なく合戦をしてはいけないという法規)を無視していると訴え、秀吉の怒りを買い津軽家を征伐されそうになります。
しかし、それを釈明するべく石田三成らに取次をしてもらい釈明。秀吉に許され、漸く大名として認められました。
津軽為信は石田三成が秀吉と引き合わせてくれて三成に非常に感謝していたとのだといいます。
そんな中、関ヶ原の戦いが勃発します。
津軽為信は大名として認めてもらった豊臣家、そして、その豊臣家と繋がるきっかけになった三成率いる西軍に与したかったのですが、津軽家の所領を頭の中で思い描いて下さい。
そう、現在の青森県ということは当然周りの国々は東軍の味方なんです。
ここで津軽家だけ西軍に与することになれば・・・
という状況でした。
その為、「津軽為信」は三男・「津軽信枚」と共に東軍に与します。
しかし、嫡男の「津軽信建」はこの時豊臣秀頼の小姓として大阪城におりました。
そういった事情から自ずと信建は西軍に与します。
戦後はこの、3人とも生き残るもののこの、津軽家もお家存続の秘策として家を二分させたと考えられています。
どうでしょう。
戦国時代にはこのような手を駆使してなんとか家を存続させようとしていました。
親子で敵味方に別れて戦う、戦うというなんとも非情な話ですがこういったことで後世まで家の名を残したかったのでしょう。
現代ではもうそのようなことをする必要はありませんが、私も自分の家が私で途切れないように頑張りたいものです。
レッツ、お家存続!
頑張りましょう!!
それではまた。
どうも!
みなさん、こんばんわらび餅!
もう木曜も終了し、明日で1週間終わりですね。とりあえず明日も頑張りましょう。
そんな本日は新たなカテゴリーでいきます!
みなさんも、歴史ばかりで心機一転したいところじゃないですか???
私はずっと歴史でいいんですけどね!
そんな新カテゴリーは「音楽」です。
実のところ私は音楽なんて聞かないし、興味もないのですが今回の話は一応?音楽なのかな?と思いこのカテゴリーでいきます。
「ポールのはなし」と題しましたが、正確には「ポール・マッカートニーのはなし」です。それではいきます。
今から51年前の今日はあの歴史的ロックグループである「ビートルズ」が来日した記念すべき日である。
そんな本日は「ビートルズの日」という記念日が設定されている。
みなさんはこんな話を聞いたことがあるだろうか?
その、ビートルズのメンバーの1人である、
「ポール・マッカートニーは死んでいて実は2代目」
だという話を。
このポール・マッカートニーの偽物説は実しやかに語られているいわば都市伝説的なものである。
ではなぜこのような都市伝説が生まれたのか?
そして、本当に今のポール・マッカートニーは偽物なのか?
ということについて少し語りたいと思います。
その発端は1969年。アメリカの学生が執筆した新聞記事からその噂は広まる。というのもビートルズのある曲を逆再生するとポールが死亡しているようなメッセージに聴こえる、というクソみたいな話からそれがどんどん広がっていったというのだ。
なんともしょうもない話だが、その記事を執筆した学生の大学のキャンパス内からジワジワ広がっていきそんな根も葉もない噂はなんと世界中に広がっていったのだ。
その死亡したという噂の内容はこうだ。
1967年にポール・マッカートニーは自動車を運転中に交通事故に巻き込まれて死亡してしまった。
そこで、ポールに似ている代役を立ててひっそりと替え玉として活動を継続している。
という内容であったという。
なんというか、本当にクソみたいな話であるが何故かその噂は瞬く間に広がってしまったようである。
やはり、当時人気絶頂だったグループだけあってそういった類の噂話程度のものでも早く広まるものなのだろう。
その噂が広まってからというもの、「あの曲はポールの死を暗示している」とか「あのジャケットはポールの死を弔うものだ」など多くのファンが様々なことをこじつけて妙な信憑性を持たせながら発展していった。
当たり前だが噂の広まりから暫くして、ビートルズの広報担当者はアッサリと噂を否定「ポールは今も健在」という声明を出す。
ポール本人も1969年11月の『ライフ』誌のインタビューに以下のように答えている
「多分この頃メディアにそれほど出てないからこういう噂が広まったんだろう。もう一生出なくてもいいぐらい出ているし、最近じゃ話すこともなくなったよ。家族と一緒にいられて幸せなんだ、働くときは働くけどね。ここ10年は常にスイッチが入った状態で切ったことはないぐらいだった。今はできるときにはなるべくスイッチを切るようにしているんだ。最近じゃ知名度も少し落ちただろう」
このインタビューにより噂は沈静化し始める。
それでも、一旦広まった噂は全てが消えるわけではない。
50年近く経った今でもまだ実しやかに語られている。
そんな中、2015年に以下の記事が発表された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本物のポール・マッカートニーは1966年に死亡 替え玉を使用?
本物のポール・マッカートニーは1966年に死亡 替え玉を使用?
元ビートルズのドラマー、リンゴ・スターさんが、 世界を驚かせた。スターさんは、外国の出版社のインタビューで、 「本物の」ポール・マッカートニーさんは、 1966年11月9日に交通事故で死亡したと発表した。
マッカートニーさんのそっくりさんコンテストで勝利したミュージ シャンのウィリアム・ビリー・キャンベルさんが、 ポールさんと入れ替えられたという。
スターさんは、「ポールが死んだとき、私たちはパニックに陥った … 私たちはどうしたらいいのか分からず、 私たちのマネージャーのブライアン·エプスタインが、 一時的な処理として、ビリー・キャンベルを雇うことを考えた。 ビリー・キャンベルは、 私たちと1週間あるいは2週間だけ一緒に演奏するはずだったが、 時間が経ち、誰もトリックに気づかなかっため、 私たちは一緒に演奏を続けた。ビリーは、 十分に良いミュージシャンで、 ポールよりもより演奏をすることができた。唯一の問題は、 ビリーがジョンと上手く折り合うことができなかったことだ」 と語った。ハリウッドのマスコミが伝えた。
スターさんは、さらにもう一つのビートルズの「秘密」 を明らかにした。ジョン・レノンさんは、カリスマ・ バンドが全世界に嘘をつかなければならなかったため、 グループを脱退したというのだ。
ポール・マッカートニー氏自身や、 同氏の取り巻きはまだスターさんの発言について誰もコメントして いないが、このようなセンセーションのあと、 マッカートニーさんの自宅は世界中のジャーナリストやパパラッチ に取り囲まれた。
「The Voice of Russia」より
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どうだろう?この衝撃的な記事は!
メンバーの1人であるリンゴ・スターがこのように語っているのである。
これを、見ると
「マジかよ!やっぱ死亡説は本当で偽物なのか!」
と思ってしまうだろう。
しかし、実際にはこれは「The Voice of Russia」という機関が発表したパロディ記事であり、ネタだというのだ。
何からなにまでしょうもない。
兎に角、あのたま〜に日本に来てはライブをするおじいさんになったポール・マッカートニーは本物だということなのだ。
みなさん、それは安心していいだろう。
しかし、火のないところに煙は立たない。
もしかしたら本当に初代ポールは亡くなっていて2代目ポールなのかも?
その事実は本人と関係者しか分からないので実際には謎である。
都市伝説というものはそういう想像を楽しむものであるからこれでいいのだ。
各人が各々いろんなことを考えるのが面白い。
みなさんは、この都市伝説どう思うだろうか?
あとはみなさんそれぞれの解釈・考えに任せることにしよう。
と、いうことで今日のところは終了。
もしかしたらあなたの家族や友人もどこかのタイミングで違う人に変わっているかもしれませんよ?
最後はそんな世にも奇妙な物語風で締めたいと思います。
あんまり中身が濃くない記事でしたが、お赦し下さい。
それではお休みなさインドゾウ(パオーン)!
どうも!
こんばんワイマール憲法!
ということで本日もブログ更新の時間がやってまいりました。
本日も少しバタバタしており、ミニ歴史でお送りします。
最近は近代の日本史に重点を置きがちで執筆しておりますので本日もその流れに乗って近代の話を一つ。
元々近・現代は私の専攻分野でもあり興味があるので記事がどうしても偏ってしまうのは御容赦願います。
それでは本日のタイトルは
「バロン西とウラヌス」 です。
太平洋戦争では多くの方が亡くなったのは周知の事実でありますが、多くの有名人やスポーツ選手なども亡くなっています。
例えば、プロ野球選手の沢村栄治投手や歌手の上原敏氏などは有名です。
そういった、戦死された著名な方々の1人にバロン西こと「西 竹一(にし たけいち)」さんがいます。
今回はその西竹一について話します。
西は旧日本陸軍の軍人でありました。1902年に東京で生まれ、なんと家柄は華族という華々しい家柄でした。そのために愛称は「バロン西」と呼ばれました。
学習院初等科に通っていた際に学長である乃木希典の影響で軍人を目指すようになります。
広島陸軍地方幼年学校⇨陸軍中央幼年学校⇨陸軍士官学校という所謂軍人のエリートコースを進みました。
華族だった為に幼少から乗馬を嗜んでいたこともあり、兵科は騎兵選択します。その後は陸軍騎兵学校を最終的に卒業し一人前の騎兵としてその後の人生を送ることになります。
1930年、彼にとって人生の転機が訪れました。軍務でイタリアに出張していた際に「ウラヌス」という一頭の馬に出会います。
西は騎兵であり、勿論幼少から嗜んでいた乗馬を継続していましたのでこのウラヌスを気に入り自費で購入します。
ウラヌスとのコンビで様々な乗馬の大会に参加し、数々の好成績を収めました。
その後もウラヌスと共に馬術で活躍をしていき、1932年にはロサンゼルスオリンピックに出場することとなりました。
ロサンゼルスオリンピックでは馬術大障害飛越競技に出場し、西とウラヌスはなんと優勝。金メダリストとなるのです。
そう、西竹一はなんとオリンピックの金メダリストなのであります。
どうでしょう?まさか、金メダリストが太平洋戦争に参加していたということは思いもしなかったのではないでしょうか。
勿論、上記の戦死した有名人であげました沢村栄治や上原敏などは職業軍人ではありませんが、こいうった軍人であってもスポーツ界で華々しい成績を収めた軍人がいたというのは意外な事実ではないでしょうか。
因みに、2017年現在で日本人の馬術競技でメダルを獲得した唯一の選手だというから驚きです。
その後、日本陸軍が近代化と共に花形であった騎兵よりも、装甲車を使用した戦車兵をより、重視したこともあり騎兵から戦車兵へと転科します。
1943年には陸軍中佐まで上り詰め、その翌年には戦車第26連隊の連隊長に任命されます。
戦車第26連隊は当初はサイパンへ派遣される予定でしたが、派遣される前に玉砕。変わって、硫黄島への動員が決定します。
硫黄島へ赴任する前に東京で赴任準備をしていた際はよくウラヌスがいた馬事公苑へ行き会いにいってたようです。
ウラヌスも西の足跡で、西だと判別するなど西とウラヌスの間には何年経っても強い絆で結ばれていたのだと思われます。
しかし、ご存知の通り硫黄島というのは太平洋戦争の中でも大変激戦地でした。
西もこの硫黄島土地で1945年に戦死を遂げました。
馬事公苑で余生を送っていた愛馬ウラヌスも西の戦死後後を追うように亡くなったといいます。
西本人も、生きて帰ってまたウラヌスと馬場の中を駆け回りたかったことでしょう。
さぞ、無念だったことだと思います。
実は戦死された方の中に金メダリストがいたんですね。
戦争はこういった多くの優秀な方や著名な方を多く失くしました。
本当に悲しむべきことであります。
戦争など何のメリットも生まれないのだから、世の中から全ての争いが無くなり平和な世界になって欲しいものですね。
本日は、そんな意外な事実とバロン西とウラヌスの絆を取り上げて、もう一度みなさんに平和について考えてもらおうというお話でした。
今日も今日とて眠く、後半のまとめが不明確になってしまい何を伝えたいんだかわからないと思いますがお許しください。
もう寝なきゃ。
おやすミルメーク!
(ミルメークの粉をそのまま牛乳瓶に入れると牛乳が溢れちゃう)
どうも、こんばんわんだふる!
最近はすぐ眠くなってしまい、老化をひしひしと感じております。
本日も頑張って更新です。
さて、本日は少し夜も遅く眠いこともあり簡単にミニ歴史を一つ。
何を記事にしようかと迷いましたが、今回は「憲兵」についてにしましょう。
みなさんは「憲兵」と聞いてピンときますでしょうか?
兵隊?軍人?結局何をしてる人なの?
このような人が多いはず・・・?ですよね。
「憲兵」が何いったい何なのかというとですね、以下引用をしますのでご参照ください。
けん‐ぺい【憲兵】 の意味
出典:デジタル大辞泉
陸軍で、軍事警察をつかさどる兵。また、その兵科。日本では明治14年(1881)に創設され、陸軍大臣の管轄に属した。のち、しだいに権限を拡大し、一般民衆の思想取り締まりを主要任務とするようになった。第二次大戦後に解体。
(goo辞書より引用https://dictionary.goo.ne.jp/jn/70784/meaning/m0u/)
つまりは軍隊の中の警察組織なんですね。
軍部を取り締まる役割が憲兵にはありました。
ここで注目して欲しいのは「憲兵」というのは“兵科”の一つということなんです。
兵科というのは
・歩兵
・騎兵
・砲兵
・工兵
・輜重兵
・憲兵
・航空兵
という区分分けがされており、技術部・経理部・衛生部・軍医部・軍学部・法務部という専門的な各部の兵隊ではなく、あくまでもその他の一般的な軍人の中に上記の兵科に区分けがされており憲兵が存在します。
従って、経理部や軍医部の兵隊が憲兵になるということはまずありません。(もしかしたらあるかもしれません)
一般的な軍人は軍学校時に希望の兵科を選択して各兵科へと進みます。
(因みに徴兵の場合は選ぶ余地はないらしい)
しかし、士官学校などの兵科希望には「憲兵」の選択肢は無く若くして憲兵になることはない規則らしいです。
では、どうやって憲兵になるのでしょうか?
それは一般的な会社のように転属みたいなものがあり、転科ができたようです。
転科の際は陸軍憲兵学校に数ヶ月通い、憲兵としての訓練を積みます。
そうして晴れて憲兵へとなることができます。
しかし、憲兵という兵科は全くもってエリートコースではないんですね。
武功をあげる機会もないですから昇進の芽はほとんど皆無ですし、他の歩兵などと比べると出世は見込めません。
なので、憲兵というのはある意味エリートコースから外れた兵隊がなるものだったようです。
憲兵の特徴としては、職務上の性質から悪さを働いた軍人を取り締まりをしなくてはいけませんので、憲兵は自分の階級の二つ上の階級まで逮捕する権限がありました。
例えば憲兵中尉であれば少佐を、憲兵少将なら大将を、というように。
ですので、その権限を振りかざして高圧的な態度の憲兵も多く一般の軍人にとっては嫌な存在であったようです。
二つ上の階級を取り締まれる権限があるということで、実は憲兵の階級は“中将”までしかないんです。憲兵の最高階級として憲兵中将が最高峰ということになります。
そういったことも、エリートコースではない所以なのかもしれません。
また憲兵は司法警察権も掌握でき、一般の警察と同様に一般国民に対する思想弾圧や反戦思想の取り締まりをするように次第になっていきました。
実は軍人だけではなく、そういった一般人に対しても取り締まる権限を有していたんですね。
そして、上記と関連して憲兵と言えば「甘粕事件」のような歴史上有名な事件をお話しとくべきでしょう。
1923年に起きた関東大震災の直後に東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉が社会主義思想家であった大杉栄と伊藤野枝らを殺害する事件が起こります。
これもやはり憲兵の一般国民に対する思想への取り締まり権限があったことがこの事件へと繋がってしまったという例の一つです。
軍人が一般人を殺害するまで発展してしまうのは何が何でも酷すぎるとは思います。しかし、当時の憲兵としては戦争の為に正常な判断ができずにと、いうこともあったのでしょう。
しかし、当時の憲兵の役割として軍隊の風紀や規律を乱さないこと、そして反戦思想を取り締まることこそが大事な職務であったことこら憲兵がいなければ大きな乱れが生じたことでしょう。
さて、本日は少しだけ「憲兵」についてお話しましたがいかがでしょうか?
少しは憲兵について知ることがてきましたか?
甘粕事件について折角触れたので甘粕正彦についてもっと熱く語りたかったのですがそれはまた今度にします。
甘粕正彦もこの後逮捕、釈放されてからも軍人として様々なことに関与し数奇な人生を送ります。きになる方は甘粕について調べてみるのもいいかもしれません。
それでは眠すぎるので寝ます。
おやすミルタンク!
(ポケモン金銀のジムリーダー戦でミルタンクのころがるに苦戦した苦い思い出がある方はおおいでしょう。眠すぎてわけわからんことしか言っていないのを御容赦下さい。)
プロフィール
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ワタナベ
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