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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうも〜
みなさんお元気ですか。
私は元気です。
今日も少しだけ書くぞ〜
今日もミニ歴史です。
ほぼほぼ、日本史ブログの体をなしてきましたがご容赦願います。
これを機にみなさんも日本史が好きになってください。
そんな今日は題して
「八丈島に流された男」 です。
「八丈島に流された男」というのは戦国時代の大名でありました「宇喜多秀家」の事です。
なぜ八丈島に流されたのかは後で言及します。
その前に少しだけこの宇喜多秀家という男についてお話します。
1572年に備前国・岡山城主でありました宇喜多直家の次男として生を受けました。
生まれは戦国時代も終盤に差し掛かっているような時であり、結構遅くに生まれたんですね〜。
1581年に父・直家が病死、1582年に家督を継ぎました。
当時宇喜多家は織田信長に従属していた時代であり、中国平定の羽柴秀吉軍に組み込まれ宇喜多家の家臣は備中高松城攻めなどに協力しました。
しかし、家督を継いだその年に本能寺の変が起こります。信長が死に、秀吉は急ぎ毛利家と和睦を結びます。
その毛利家の監視役として秀家は備中・美作・備前の所領を安堵され大名となるのでした。
その後、元服し秀吉から「秀」の字を与えられて秀家と名乗る訳です。
宇喜多家は外様であるにも関わらず、秀吉の寵愛を受け、なんと秀吉の猶子(他人の子と親子関係を結ぶ制度のこと)となり一門衆の扱いを受けました。
小牧・長久手の闘いや、紀州征伐、四国攻め、九州征伐、小田原征伐へと転戦・活躍し、朝鮮攻めに際しては大将として出陣し活躍しました。
当時は父の岡山城を拠点として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領し、官位も1594年には参議から従三位権中納言に昇叙されるなど、超がつくほど順風満帆。
1598年には五大老の一人に任ぜられ、最早その力は最高潮に達します。
しかし、そんな順風満帆な時代もすぐに終わりを迎えます。
1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
秀家は西軍に与し、西軍の主力として出陣することとなりす。
しかし、結果はご存知の通り西軍の敗戦。
敗走し、京都に潜伏し、その後は同じ西軍の島津を頼り鹿児島まで逃げます。しかし、「鹿児島の島津が宇喜多を匿っている」という噂が広まり、徳川家康に身柄を引き渡されるのです。
西軍の主力として積極的に戦った秀家はもちろん処刑されるはず・・・ でしたが、身柄を仕方なく引き渡した島津忠恒、親戚の前田利長の懇願により死罪を免れて駿河の久能山へ幽閉されました。
そして、1606年に公式では史上初の八丈島への流罪となるわけです。
57万石の大大名から八丈島への流人・・・。
壮絶な人生ですね。
流された当時は年齢でいうと34歳、まだまだ若くこれからという時に八丈島生活という悲しい顛末。
八丈島の生活は苦しいものでしたが、なんとか色々な人の支援を受けて生活したようです。
そして、月日は流れなんと八丈島で50年も生きるのです、、、!
1655年に亡くなりました。
これは関ヶ原の戦いの参戦した大名で一番最後に亡くなったということになります。
超長生きです。
この後、宇喜多家は滅亡しますが、その子孫が脈脈と血を残し今では八丈島の秀家の墓を子孫が守り続けているようです。
いかがでしたでしょうか、波乱万丈な「これぞ戦国武将」というような人生を生き抜いた武将宇喜多秀家は。
関ヶ原の戦いで負けたのにも関わらず、戦った大名で一番長生きとか、面白いですね。
八丈島での生活は質素そのものであったと思いますのでやはり、人間は質素な生活が長生きする秘訣なのでしょうかね?
私も質素な生活で長生きしたいものです!
みなさんも宇喜多秀家のように、質素な生活で長生きしましょう!
塩分の取りすぎは禁物!!
それではまた、明日!!
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