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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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みなさんお疲れ様です。
本日は七夕!
よく小学校の時とかには給食で七夕ゼリー的なものが出てきたイメージがあります。
社会人にもなると「七夕」と、あまり実感するようなこともなくふと日付をみて思い出しました。
みなさんはどうでしょうか?
さて、本日はミニ歴史を書こうかと思います。
七夕だから七夕に関連した事とも思いましたけれど、あんまり思い浮かばなかったので明日にでも書くかも?
なのでそんな本日は有名どころから、題して
「三本の矢」 です。
それでは書いていきます。
戦国時代の有名な逸話の中に
「三本の矢の教え」という話があることはみなさんもご存知だと思います。
概略を申し上げますと、
《晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。》
(Wikipediaより引用)
上記のようなお話です。長いのでWikipediaから引用したことをお赦し下さい。
つまりは、
三本(さんぼん)の矢(や)の教(おし)え の意味
出典:デジタル大辞泉
戦国武将の毛利元就が、子の隆元・元春(吉川氏に養子)・隆景(小早川氏に養子)に授けたという教え。一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。三矢の教え。
(https://www.google.co.jp/amp/s/dictionary.goo.ne.jp/amp/jn/92091/meaning/m0u/より引用)
この最後の行、【一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。】この訓話を意味しています。
素晴らしい話だなぁ、と思いますよね。
名門・毛利家の強さを象徴したようなお話ですね。
この有名な「三本の矢」は最近でもある方によって使われましたよね。
そうです、安倍晋三首相。
数年前に“アベノミクス”として「三本の矢」を掲げたわけですけど、このアベノミクスの三本の矢も毛利家の三本の矢からとっているんですね。
ですが、この話って《創作》だったって知ってましたか?
実は毛利元就がこのような事を息子たちに話したという事はどの文献にも書かれてはいないんです。
では、何故この話が広まり有名になったのか?
それは、毛利元就が書いた『三子教訓状』という文章にルーツがあります。
元就が60歳を越えていた時、3人の息子に一致協力して毛利宗家を盛り立てていくように14条の教えを書いています。
この14条の教えを基にして「三本の矢」のエピソードが生まれたとされています。
実は創作だったってショックですよね。
しかし、毛利家は吉川元春・小早川隆景の尽力もあり中国地方を平定することができたのです。これは何と言っても兄弟三人の協力があったからこそ、ではないでしょうか。
因みに毛利家を継いだ毛利隆元は実は父・元就よりも早くに亡くなってしまうんです。なのでやはり元春、隆景のいわゆる「毛利両川」の力は強大だったということですね。
秀吉に天下を統一されてからは小早川隆景は五大老の一人に任命され、秀吉の正室である高台院の甥であった「羽柴秀俊」を養子として迎えます。それほど、秀吉にも重宝されていたのですね。
(「羽柴秀俊」は後の「小早川秀秋」です)
また、毛利元就の孫、つまり毛利隆元の子であった毛利輝元も五大老の一人に任命されていることから、豊臣政権にとって毛利家は大きな影響を及ぼし、それほどチカラがあったということです。
改めてこういうことから推測しても、三人が協力してこれほどの地位まで上り詰めたということですかね。
サンフレッチェ広島の「サンフレッチェ」は三本の矢という意味から来ているということも最後に豆知識として書いておきますね。
さて、本日はこれにて終了。
おやすみなさい。
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