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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうも、みなさん。
お疲れ様デストラーデ。
本日も無事に更新します。
お付き合い下さい。
そんな本日ほミニ歴史としまして
「服部半蔵只今見参!」
というタイトルで執筆します。
それではどうぞ。
「服部半蔵」というと、多くの人は忍者を想像するのではないでしょうか?
でも、実際には服部半蔵って忍者ではなかったって知っていましたでしょうか?
そして、この「服部半蔵」という名前は襲名制であったということもあまり知られていないでしょう。
なんと服部半蔵は戦国時代から江戸時代にかけて数人いたのです。
ではなぜ、「服部半蔵」が忍者の代名詞になったのかと言うとそれは初代の服部半蔵まで遡ります。
「服部半蔵は忍者ではない」と先ほど申し上げましたが、これは訂正します。
「服部半蔵は“ほぼ”忍者ではない」というのが正確ですね。
というのも初代・服部半蔵保長は伊賀出身の忍者でした。初めは室町幕府の12代将軍、足利義晴に仕え、後に松平清康に仕えました。
そう、初代だけは忍者でした。
その保長の子が「服部半蔵正成」でした。正成はこの服部半蔵の中で一番有名な服部半蔵であり、この方のおかげでこれほど有名になったのでしょう。
服部半蔵正成は、徳川家康に仕える武将でした。
父が伊賀出身ということもあり、伊賀同心の配下をつけられました。
つまりは、忍者を率いるリーダーのようなポジションで活躍します。
正成は家康の懐刀として重宝され、後に徳川十六将の一人として名を連ねます。
また、槍の名手としてもよく知られており武勇に秀で「鬼半蔵」の異名を持っています。
よく言われる例えですが、分かりやすく説明すると徳川社の忍者課の課長のようなものと考えていただければ分かりやすいかと思います。
家康が関東に転封後に、東京のあるところに屋敷を建てたことから彼の名に因んだ名前の地名があるのですが分かりますでしょうか?
そう、地下鉄の路線名にもなっている「半蔵門」という地名が服部半蔵正成から名付けられているのです。
正成以後、服部半蔵は継承され江戸末期まで居たとされます。
しかし、今の服部半蔵のイメージはこの2代目の活躍によるところが多く。
やはり服部半蔵正成の活躍がいかに目覚しかったかが分かりますね。
さて、今日は少し早いけどこれにて終了です。
また明日!
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