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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうも!
こんばんワイマール憲法!
ということで本日もブログ更新の時間がやってまいりました。
本日も少しバタバタしており、ミニ歴史でお送りします。
最近は近代の日本史に重点を置きがちで執筆しておりますので本日もその流れに乗って近代の話を一つ。
元々近・現代は私の専攻分野でもあり興味があるので記事がどうしても偏ってしまうのは御容赦願います。
それでは本日のタイトルは
「バロン西とウラヌス」 です。
太平洋戦争では多くの方が亡くなったのは周知の事実でありますが、多くの有名人やスポーツ選手なども亡くなっています。
例えば、プロ野球選手の沢村栄治投手や歌手の上原敏氏などは有名です。
そういった、戦死された著名な方々の1人にバロン西こと「西 竹一(にし たけいち)」さんがいます。
今回はその西竹一について話します。
西は旧日本陸軍の軍人でありました。1902年に東京で生まれ、なんと家柄は華族という華々しい家柄でした。そのために愛称は「バロン西」と呼ばれました。
学習院初等科に通っていた際に学長である乃木希典の影響で軍人を目指すようになります。
広島陸軍地方幼年学校⇨陸軍中央幼年学校⇨陸軍士官学校という所謂軍人のエリートコースを進みました。
華族だった為に幼少から乗馬を嗜んでいたこともあり、兵科は騎兵選択します。その後は陸軍騎兵学校を最終的に卒業し一人前の騎兵としてその後の人生を送ることになります。
1930年、彼にとって人生の転機が訪れました。軍務でイタリアに出張していた際に「ウラヌス」という一頭の馬に出会います。
西は騎兵であり、勿論幼少から嗜んでいた乗馬を継続していましたのでこのウラヌスを気に入り自費で購入します。
ウラヌスとのコンビで様々な乗馬の大会に参加し、数々の好成績を収めました。
その後もウラヌスと共に馬術で活躍をしていき、1932年にはロサンゼルスオリンピックに出場することとなりました。
ロサンゼルスオリンピックでは馬術大障害飛越競技に出場し、西とウラヌスはなんと優勝。金メダリストとなるのです。
そう、西竹一はなんとオリンピックの金メダリストなのであります。
どうでしょう?まさか、金メダリストが太平洋戦争に参加していたということは思いもしなかったのではないでしょうか。
勿論、上記の戦死した有名人であげました沢村栄治や上原敏などは職業軍人ではありませんが、こいうった軍人であってもスポーツ界で華々しい成績を収めた軍人がいたというのは意外な事実ではないでしょうか。
因みに、2017年現在で日本人の馬術競技でメダルを獲得した唯一の選手だというから驚きです。
その後、日本陸軍が近代化と共に花形であった騎兵よりも、装甲車を使用した戦車兵をより、重視したこともあり騎兵から戦車兵へと転科します。
1943年には陸軍中佐まで上り詰め、その翌年には戦車第26連隊の連隊長に任命されます。
戦車第26連隊は当初はサイパンへ派遣される予定でしたが、派遣される前に玉砕。変わって、硫黄島への動員が決定します。
硫黄島へ赴任する前に東京で赴任準備をしていた際はよくウラヌスがいた馬事公苑へ行き会いにいってたようです。
ウラヌスも西の足跡で、西だと判別するなど西とウラヌスの間には何年経っても強い絆で結ばれていたのだと思われます。
しかし、ご存知の通り硫黄島というのは太平洋戦争の中でも大変激戦地でした。
西もこの硫黄島土地で1945年に戦死を遂げました。
馬事公苑で余生を送っていた愛馬ウラヌスも西の戦死後後を追うように亡くなったといいます。
西本人も、生きて帰ってまたウラヌスと馬場の中を駆け回りたかったことでしょう。
さぞ、無念だったことだと思います。
実は戦死された方の中に金メダリストがいたんですね。
戦争はこういった多くの優秀な方や著名な方を多く失くしました。
本当に悲しむべきことであります。
戦争など何のメリットも生まれないのだから、世の中から全ての争いが無くなり平和な世界になって欲しいものですね。
本日は、そんな意外な事実とバロン西とウラヌスの絆を取り上げて、もう一度みなさんに平和について考えてもらおうというお話でした。
今日も今日とて眠く、後半のまとめが不明確になってしまい何を伝えたいんだかわからないと思いますがお許しください。
もう寝なきゃ。
おやすミルメーク!
(ミルメークの粉をそのまま牛乳瓶に入れると牛乳が溢れちゃう)
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