ナベログ!
ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうも、こんばんわ。
久しぶりに2日連続の更新です。
本日、新潟は豪雨。
あなた何処へやら〜 って感じです。
まだ北陸地方は梅雨明けしないみたいです。
さて、本日も歴史系の話ではなくて雑学的な?ことになりますが、ふと気になった事について書こうかと思います。
本日は
「NIKEのはなし」
です。ではいきましょう!
そろそろ、愛用していたスニーカーも買い換えようかなと思いたつ。
私の個人的な拘りなのだが、「スニーカーは必ずNIKE!」というのが私の信条である。
やはりNIKEはカッコいい。
とりあえず、NIKEを履いていれば間違いない!という考えに基づいてもうかれこれ10年近くはスニーカーはNIKEを選び続けている。
と、そんな話は置いといて、本日はそんなこともありNIKEの名前とロゴの由来についてふと気になり結構有名な話ではあるが調べて見ることにした。
まず、NIKEの由来だが社員の一人が夢で見たギリシャ神話に登場する女神「ニケ(nike)」から来ており、ニケを英語読みして「ナイキ」となったという。
女神ニケは勝利の女神であり、スポーツメーカーとしては非常に縁起が良くうってつけの名称である。
あの特徴的なロゴマークは「スウッシュ (Swoosh) 」と言って、擬音で「ビューンと音をさせる」という意味らしい。
その擬音の通り、躍動感やスピード感を表現しているのだという。
また、あのマークはNIKEの名前の由来ともなった女神ニケの翼をモチーフにしているとも言われている。
まぁ、ここまでは有名な話ではある。
では、女神ニケって何やねん、って思う方もいらっしゃることだろう。
実はみなさんも気づいていないだけで一度くらいはこの女神ニケを見たことがあるのではないだろうか。
ルーブル美術館にある超有名な像、「サモトラケのニケ」こそ女神ニケの像なのである。
あのギリシャのサモトラケ島で発見された特徴的な像である。
結構、日本全国にレプリカがあるので本物こそないかもしれないがレプリカを見たりテレビや本で見たことがある方は多いはず。
あのサモトラケのニケの「ニケ」の翼をモチーフにしているというのは知らない方もいたのではないだろうか。
因みにサモトラケのニケが発見された当初はこの銅像はバラバラで復元や接合などを経て現在のあの美しい像として観光客の目を楽しませているらしい。
頭部は見つかっておらず、それがかえって特徴的で印象に残るような像となっている。
さて、そんな感じでもう本日は終わろうかと思う。
何が言いたいかというとやっぱりNIKEっていいよね!ということだ。
みなさんもスポーツ時にはNIKEの製品を身につけて勝利の女神を味方につけよう!
ということで終了です。
さーて、新しいスニーカーはどんなのを買おうかな〜
今履いてるのはハイカットのスニーカーなのでなんかこの夏のシーズンには暑苦しいような気がするのでサマー仕様にしますかね。
今度靴屋さんにいってみますか。
それではまた!
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どうも、みなさんこんにちは。
久しぶりの更新となってしまいました。
というのも、金曜日は東京出張、昨日土曜は疲れもあり夜は爆睡。
仕方なしですね。
さて、というわけで本日は久しぶりに歴史関係のことではない話をしようと思います。
この前東京に行ったので、なんとなくその時に乗った新幹線について興味を持ったというか、色々と調べたいなぁと思い立ち、本日は
「上越新幹線のはなし」と題してましてお話しようと思います。
それでは参りましょうか。
上越新幹線は東京・新潟間を結ぶJR東日本の新幹線のことである。
東海道新幹線や東北新幹線は乗ったことがあるという方も多いかと思うが、あまり上越新幹線は乗ったことがある人はいないのではないだろうか。
あまり、新潟に行くことがないと思うので非常に乗る機会が少ない新幹線かもしれない。
では、少し上越新幹線の概要を見ていこう。
開業は1982年で、開業から今年で35年になる。歴史はそこそこ古い。
路線距離は269.5kmで想像以上に短い。
停車駅は
東京駅
↓
上野駅
↓
大宮駅
↓
熊谷駅
↓
本庄早稲田駅
↓
高崎駅
↓
上毛高原駅
↓
越後湯沢駅
↓
浦佐駅
↓
長岡駅
↓
燕三条駅
↓
新潟駅
と列車の種類によって停車の有無はあるが、このような感じで全12駅から成っている。
高崎駅から長岡駅は三国山脈を通ることから非常にトンネルの区間が多い。
現在も車内でスマホをいじっていると電波が悪く、圏外になることもしばしばある。
運行する列車は
・とき、Maxとき
・たにがわ、Maxたにがわ
という列車が運行している。
とき、Maxときは新潟発着の場合、たにがわ、Maxたにがわはそれ以外の越後湯沢駅発着の場合のみ運行している。
因み「Max」というのは二階建て車両のことであり、この「Max」という名称は"Multi Amenity eXpress"を略したものである。
二階建て車両の場合は二階の座席はリクライニングしないので、一階の座席に座ることをお勧めする。
「とき」「たにがわ」の名称は
「とき」は朱鷺のことであり、「たにがわ」は路線で通過する谷川岳の事を指している。
話は少し脱線するが、谷川岳といえば谷川岳PAのもつ煮が美味しいので新幹線ではなく車で新潟方面に行く際は谷川岳PAでもつ煮を食べて欲しい。
補足として上越新幹線の新潟県内の各駅舎は豪雪地帯にあるので全駅舎に屋根が付いており雪の対策をしている。
まぁ、このような感じで基本情報を書き連ねたがそこまで他の新幹線とあまり変わらないか。
豪雪地帯で駅舎が雪の対策をしていることと、トンネル区間が多いことくらいが特徴だろうか。
あとは、上越新幹線は東海道新幹線や東北新幹線、山陽新幹線などの従来の新幹線と違うところは日本を横断するような形で運行している点であろうか。
つまり、太平洋側から日本海側までを結ぶ初めての新幹線ということである。
地図を見ると結構綺麗に日本列島を縦一本に横断して運行するのが確認できるだろう。
後はJRの料金は営業キロで運賃を計算するので、いくら需要が無い上越新幹線でも東京ー仙台間や東京ー名古屋間などとあまり運賃に大差ない。
これは如何なものだろうかとは思うが致し方ない。
大目に見て欲しいが・・・。
という愚痴をこぼしたところで本日は終了。
夏はいいので、是非冬にスキーをしに上越新幹線で新潟に行くのはどうだろうか?
というわけで終わります。
私ももう少しで上越新幹線に乗る機会も少なくなってしまうのでなんか悲しいですね。
新幹線に乗ると結構ワクワク感を楽しめるので乗るのは好きなんですけどね〜。
新潟を離れるまで最低でもあと2往復は上越新幹線を利用するのでしっかりと上越新幹線を楽しもうと思います。
それではまた!
どうもー
こんばんわ〜(IKKO風)
最近は少し更新の頻度を落ち着かせてます。
そう、ネタ切れもいいところなんです。
唯一のファンも暇を脱したようだし、需要と供給を保とうということもありますので2日に1回更新くらいのペースでゆるりといきますかね。
さて、本日も歴史系の話でミニ歴史を少々。
タイトルは
「特務士官とは?」 です!
ではいきますか。
軍人には階級というものがあります。
陸・海軍殆ど共通で下は二等兵から上は大将までです。(太平洋戦争期)
因みによく言う「元帥」というのは大将に与えられた称号ですので階級とはまた少し違います。
その階級を表す時に「特務士官」という階級がかつて存在しました。
普通の「士官」と何が違うの?
と思うかもしれませんが、実は全くの別物なんです。
まず、士官とは将校のことで階級的には少尉以上の兵隊のことを指します。
特務士官も勿論、少尉以上の兵隊を指すのですが「特務」が付いている特務士官は通常の少尉よりも格下とされ区別というより差別をされていました。
では具体的にどういう人が特務士官になるのが説明していきます。
特務士官の階級があるのは帝国海軍のみで陸軍にはこのような制度はありませんでした。海軍はエリート主義と呼ばれるように超学歴主義で出世は学歴によりました。
(陸軍はある程度平等なところはありました)
ですので、通常士官になるには海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校などの学校を卒業しなければ原則なれません。
しかし、そうなるとそれらの兵学校を出ていない軍人は士官にはなれず兵曹長レベルで頭打ちになってしまいます。
そのため、兵学校を出ていない叩き上げの軍人がそれより上に出世する為に「特務士官」という階級を設け、任じました。
ですので、同じ「少尉」であっても
・非エリート叩き上げ➡︎特務少尉
・兵学校卒のエリート➡︎少尉
と呼び差をつけていました。
海軍兵学校などの出身者はスタートが少尉からですから叩き上げの特務少尉はもうかなりのベテランという不思議な状態になります。
海軍の規律ではベテラン特務中尉よりも新米少尉の方が偉く指揮権は新米少尉にある、という歪な構図が生まれていました。
従って、大尉➡︎中尉➡︎少尉➡︎特務大尉➡︎特務中尉➡︎特務少尉➡︎兵曹長・・・
というように「士官」ではあるけど一段格下のような扱いでした。
特務士官で著名な方といえば「大空のサムライ」で有名な坂井三郎氏。
彼は海軍の叩き上げで38歳で特務少尉となっています。
やはり、出世は大分遅いですね。
とにかく、特務士官は角落ちの士官と覚えておいてください。
「特務」とか付けばなんかカッコいい!!
と思う気もしますがじつは非エリートなんです。
しかし、そういう叩き上げのベテラン特務士官ほど戦時中には活躍が華々しかったりしましたので特務士官様々ですね。
海軍ほど学歴主義だと嫌になってしまいますね、私も学はないので特務士官みたいに叩き上げでサラリーマン生活頑張ろうと思いました。
それでは、また!
どうもー
こんにちわー
三連休最終日〜 うぇーい( ✌︎'ω')✌︎
ということで悲しいのでテンション上げていきましょう。
今回の三連休はひたすらダラダラしていましたね、いつも通りの休日。
しかし、もう少しで環境が変わるのでそれを境にアクティブになろうと思い今はひたすらダラダラしようと、そんな心持ちでございます。
さて、本日はミニ歴史ということでサクッといきましょう!
本日は題して
「干支と時間」 です。
では、いきましょう。
よく時代劇などで、「〇〇の刻に・・・」とか聞いたこと無いですか?
現代でも「丑の刻参り」と言う言葉も残っているので少しはピンとくるのでは無いでしょうか。
これは干支で時間を表している「十二時辰」というものです。
こういう表し方があるのは知っているけど、それが何時なのか分からない!
という人も多いはず、、、。ですので、今回は少しこれについて見ていきましょう。
と、言っても物凄く簡単です。干支さえ言えればなんてことはないです。
子の刻➡︎時刻としては00時、時間帯としては23時〜01時
丑の刻➡︎時刻としては02時、時間帯としては01時〜03時
寅の刻➡︎時刻としては04時、時間帯としては03時〜05時
卯の刻➡︎時刻としては06時、時間帯としては05時〜07時
辰の刻➡︎時刻としては08時、時間帯としては07時〜09時
巳の刻➡︎時刻としては10時、時間帯としては09時〜11時
午の刻➡︎時刻としては12時、時間帯としては11時〜13時
未の刻➡︎時刻としては14時、時間帯としては13時〜15時
申の刻➡︎時刻としては16時、時間帯としては15時〜17時
酉の刻➡︎時刻としては18時、時間帯としては17時〜19時
戌の刻➡︎時刻としては20時、時間帯としては19時〜21時
亥の刻➡︎時刻としては22時、時間帯としては21時〜23時
と、このような感じで時間が振り分けられています。
1つの干支で2時間ずつ幅があるんですね。
それはそうですよね、1日24時間で干支が12種類ですから。
簡単ですよね、0時から子、それを亥まで2時間ずつ数えていけば一周するという明朗な数えたです。
この中でも少し細かく分けて30分単位などでも表しますが、今回は簡単にこれだけ紹介します。
気になる方は調べて見てください。
因みに、「四六時中」という言葉がありますがこれもこの昔の時間の表し方に由来しています。
元々、「四六時中」は「二六時中」という言葉でした。
「二六時中」は上記のように干支で十二刻を表していた時に「2×6=12」となることから一日中を意味していたと言います。
それを現代の24時間表記にならって、「4×6=24」ということで「四六時中」となったのです。
もう1つ関連して豆知識を披露しますと、12時00分を正午というのは「午の正刻」からきている、というのもこの干支の十二刻からきています。
さて、本日はこれにて終了しますがこれで時代劇を見ていて「寅の刻に向かう」といったら大体明け方の4時前後だと思いながら見てください。
因みに、「丑の刻参り」は午前2時前後の事を指します。
ひゃ〜怖い怖い。
それでは、そろそろ「酉の刻」ですので夕食にしますか。
それではまた明日?
はい、どうも。
誰も見ていなくても更新する、これがこのブログのモットーなので本日も更新だ!!!
このブログの本来の趣旨に戻りつつあります。
さて、本日もまた歴史のはなしを。
タイトルは
「陸軍三長官のはなし」
です。
それでは、いきましょう!
陸軍三長官というのは旧日本陸軍の最高幹部の3つの役職のことを指す。
具体的に言うと、
・陸軍大臣
・参謀総長
・教育総監
の3つの役職である。
Wikipedia先輩は、やはり簡潔にまとめられてて良い。いつものごとく拝借したい。
大正初期から、将官人事はこの三長官が合意とすることが慣例となった。清浦内閣の陸相人事をめぐって揉めた際、「三長官合意」を論拠として宇垣一成が陸相となった。それはその後も慣例として続き、陸軍の幹部人事について三長官が会議を開くことが陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定で明文化された。軍部大臣現役武官制が復活した際は、この三長官合意を盾に、陸相を推挙しないなどの行動によって、組閣断念や倒閣となることがあった。
ただし、三長官会議の決定は、外部からの影響を一切受け付けないものでもなく、決定した後に覆して別の決定ができないものでもなかった。阿部内閣の組閣時に一時は多田駿を後継の陸相に決定した陸軍三長官会議の合意が、昭和天皇が、畑俊六または梅津美治郎のどちらかからの指名を希望されたことにより、再考の上で畑俊六を後継陸相とすることを三長官会議で再合意とした。また、第1次近衛内閣において杉山陸相から板垣陸相へ更迭が行われた例でも陸軍三長官会議に先だって近衛首相の主導で内閣・宮中からの工作が行われ、三長官が追認することとなった。
また、三長官本人の異動に当たっても三長官合意が必要とされたため、1935年の真崎甚三郎教育総監の更迭時のように、更迭を望む陸軍大臣と更迭を拒否する教育総監が三長官会議の席で激論になることもあった(この時は参謀総長の閑院宮載仁親王が「お前は陸軍大臣の事務の遂行を妨害するのか」と林銑十郎陸軍大臣側に立って発言したため更迭が実現している)。
戦後、三長官合意は絶対的なものでなくなった。東久邇宮内閣発足に当たって、三長官会議では土肥原賢二が陸相に推挙されたが、東久邇宮首相は同期の下村定を陸相とした。
(Wikipediaより引用)
要するに、この陸軍三長官の会議の決定により軍部内の重要事項を決定することが慣例とされていた。
上記にも書かれているが、この陸軍三長官会議と軍部大臣現役武官制のタッグで組閣を阻止したり、倒閣したりと何度もこの絶対的権力で歴史を動かしてきた。
では、詳しくこの三長官の役職はどのような職務なのか見ていこう。
【陸軍大臣】
陸軍省のトップのことで、おもに「軍政」を司っていた。陸軍の維持管理などを行う最高責任者である。
大将、中将が任命された。
【参謀総長】
天皇直隷の組織であった参謀本部の最高責任者。軍隊の指揮、戦争の作戦の指導を行い「軍令」を司っていた。
元帥、大将がこのポジションに着くことが通常であった。
【教育総監】
天皇直隷の教育総監部の最高責任者。将兵の「教育」を司っていた。
主に大将、中将がつとめた。
まぁ、簡単に言うとこのような感じである。
よく、「結局、この中で1番偉いのは誰なの?」という質問があるが、この三長官は同格とされておりだれが格上とかは無かった。
しかし、やはり天皇直隷で軍の指揮をつかさどり、予算の決定も可能であった「参謀総長」の実権は非常に強かったとされる。
また、参謀総長は元帥または大将しかなれなかったこともあり、矢張り格上感が否めない。
この陸軍三長官のポスト全てに就任したのは歴史上で2人しかいない。
それは、「上原勇作」と「杉山元」である。
上原勇作は日本史の教科書にもでてきたので有名であるが、杉山元は一般的な人ならあまり知らないか。
杉山元といえば、「杉山メモ」で有名かもしれない。参謀総長時代の会議をメモしたものが終戦時に残っており軍上層部や政府の動向などが良く分かる資料として現代でも書籍化などされ公開されている。
書店に行けば「杉山メモ」が置いてあるかと思うので是非見てみることをオススメする。
因みに海軍でも三長官は存在した。
・海軍大臣
・軍令部総長
・連合艦隊司令長官
の3つの役職であった。
しかし、海軍三長官は陸軍のように絶対的な権威は無く、三長官会議で重要事項が決まってしまうことはなかったようである。
さて、どうであろうか。
なんか、“三長官会議”という響きがかっこよくないか。
いくら名前がカッコよかろうが、陸軍三長官の決定により多くの歴史が動いてきたことは明白で結果として、日本は悲惨な運命を辿ってしまった。
こういった、軍上層部のことを研究することで、日本の敗戦の原因を追究する1つの切り口であると思う。
個人的にこういったことから、「戦争」というものを研究していきたいと考える。
みなさんも、一緒に研究しよう。
ということで終わります。
陸軍三長官って意外にも2人しか全ポジションやってないんですね。
山ほど有名な軍人がいる中でこの微妙な2人という、、、
教育総監になるのが珍しいのかな?それとも参謀総長が難しいのかな?
何にせよ3つやっているのは凄い。
トリプルクラウンですね。
ということで本日は終了。
おやすみなさい。
どうも、こんばんワンダーワイドホワイトボール!
もう今週も金曜日、明日から三連休です。
やったね!
ということで暇なのでなんとなく更新します。
久々に歴史から離れようと思います。
そんな本日は少し為になるようなことが書ければと思います。
題して、
「“日本”の読み方のはなし」
です。ではいきましょう。
「ニホン」
「ニッポン」
一体、どちらの読み方が正しいのだろうか。
ふと疑問に思う方もいるだろう。
しかしながら、この読み方がどちらかというのはあまり日常で気にしないことも多い。
例えば、テレビのニュースでアナウンサーがどちらで原稿を読んでいるのか気にしたことは無いのではなかろうか?
ということで、NHKの公式HPを覗いてみよう!
「ニホン」か「ニッポン」
1998.07.01
銀行・証券関連など最近のニュースで、企業名を含めて「日本」という言葉がよく出てきますが、「ニホン」か「ニッポン」か読み方はどうなっているのでしょうか。
両方の読みがあります。
解説
NHKでは、「日本」を正式の国号として使う場合は「ニッポン」、そのほかの場合は、言葉に応じて読み分けています。
昨年来の一連の銀行・証券の経営破たんや合併、大蔵・日銀汚職、それにワールドカップ・サッカー関連で、ニュースや番組に連日のように「日本」という言葉が出てきたためか、視聴者からのものを含めて「ニホン」か「ニッポン」かの問い合わせが目立ちました。
「日本」の付く語としては・・・
(1)「日本」と(2)「日本~」「~日本」があります。
このうち(1)については、正式の国号として使う場合は「ニッポン」。そのほかの場合には「ニホン」と言ってもよいとしています。「日本」が付く語の実際の読みについては、
[ニホン]と読む語 日本画、日本海、日本髪、日本橋(東京)ほか
[ニッポン]と読む語 日本(国号)、日本国民、日本橋(大阪)ほか
[ニホン]または[ニッポン]と読む語 日本一、日本記録、日本語ほか
[ニホン]を第1とし、[ニッポン]を第2とするもの 日本アルプスほか
以上4つのケースに読み分けています。(NHKことばのハンドブックP138)
ちなみに、応援の場合には歯切れの良い「ニッポン」が定着しています。4年後のワールドカップ・サッカーでは、心機一転、日本チームの快進撃を期待しています。「ガンバレ!ニッポン」
(https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/001.htmlより引用)
結論は出てしまった感は否めないのだが、結局どちらでも良いというNKKさんの見解。
その他、NKKのHPに下記のことも記載があった。
「ニホン」か「ニッポン」か 「日本」の読み方の現在
平成15年度(後半)「ことばのゆれ」全国調査から(1)
2004年4月「放送研究と調査」
NHKに毎日寄せられる問い合わせのうち、昔から尋ね続けられてきた代表的なものに国名としての「日本」の読み方は「ニホン」なのか、それとも「ニッポン」なのか、というものがあります。
国号「日本」の読み方は、公式に定められたものがありません。国レベルでは、昭和9(1934)年に当時の文部省臨時国語調査会が呼称統一案として「ニッポン」にすることを決議しましたが、政府で採択されず、正式な決定がないまま現在に至っています。
教科書を発行する出版社にも「日本」の読み方について同じ質問がたびたび寄せられるそうで、たとえばある社のホームページでは、「法律をはじめ明確な規定はなく」とした上で、NHKの使用方針が例として紹介されているのです。そのほか、国語辞典などでもNHKの例が取り上げられていて、この読み方は非常に難しい問題のようです。
NHKでは、現在の放送用語委員会の前身「放送用語並発音改善調査委員会」が、昭和9年の発足当時に「正式な国号として使う場合は、『ニッポン』。そのほかの場合には『ニホン』と言ってもよい」という方針を決定していますが、それから70年、現在「日本」はどのように読まれているのでしょうか。今回、調査すると、「ニホン」が61%、「ニッポン」が37%という結果になりました。また、年代別では、若い人ほど「ニホン」が増える傾向がありました。ゆれてきた「日本」の読み方は、今後、NHKの使用方針と異なる「ニホン」派が増えていくのでしょうか。
今回は、現在の「ゆれ」の状況について、「日本銀行」の読み方など社会で関心が持たれているいくつかの事例を検証しながら、調査結果とともに報告します。
また、昭和9年の文部省臨時国語調査会が、国号としての「日本」の読み方を「ニッポン」にしたのは、NHKの決定からわずか1週間後のことで、NHKの決定が影響したとも言われています。このころの経緯についても合わせて調べました。
(https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/research/002.htmlより引用)
かつて、文部省が統一呼称として「ニッポン」を採用したが、政府で正式に採択がされていない、との一文がある。
なるほど、採用はしたが正式に採択されていないと。
ということは、やらり「どちらでもいい」ということである。
案外早くに結論が出てしまった。
関連して多くの会社の社名に「日本」と入れているがこれも読み方はバラバラなのだろうか?という疑問を少し感じこちらも調べてみることにした。
・日本銀行
⇨「ニッポンギンコウ」
・日本通運
⇨「ニッポンツウウン」
・全日本空輸
⇨「ゼンニッポンクウユ」
・日本航空
⇨「ニホンコウクウ」
・東日本旅客鉄道
⇨「ヒガシニホン・・・」
と、有名企業はこのような感じらしい。
日銀がまさかの「ニッポンギンコウ」が正式とは、初耳である。
航空会社大手2社もそれぞれ違う読み方というのもややこしい。
個人的に日通は「ニホンツウウン」かと思っていたが違うらしい。
まぁ、このように会社によって正式名称はバラバラであることが分かった。
社名に「日本」がつく場合は今度からどっちの読み方なのかを意識してみるのも大切であろう。
そして、相手に失礼のないよう正式名称を言うようにしよう。
と言うわけで以上です。
個人的には少し勉強になりました。
特に社名なんかは拘りがあるかもしれないので要注意ですね!
それでは本日はここまで。
おやすみなさい〜
どうも、こんばんわ。
今日も暑いですね。お疲れ様です。
そんな本日も、またまたまたミニ歴史を1つ。
歴史ばかりで申し訳ないですが、
誰も見ていないのでまぁいいかなぁと思います。
タイトルは
「数字で見る戦国武将たち」です。
ではいきましょう。
まずはじめに「数字で見る」とは数字や数値で何かを分析するとかそういった意味ではありません。
今回書くのは、よくある数字がつくもの、例えば「◯◯四天王」などの数字で括りのある戦国武将たちをまとめてみようかなと、そういう意味です。
結構、こういう数字の括り?みたいなグループはあるので代表的なものをまとめてみました。
ではまず有名どころからいきましょう!
【織田四天王】
・柴田勝家
・滝川一益
・明智光秀
・丹羽長秀
の4人です。あれ?秀吉は?と思う方もいらっしゃると思いますが、俗にいう織田四天王とはこの4人なんです。
ですが、この4人に
・羽柴秀吉
を加えて【織田五大将】と呼ぶこともあります。
関連して次はこれ!
【羽柴四天王】
・宮田光次
・神子田正治
・尾藤知宣
・戸田勝隆
の4人。え?誰この人たち、全く知らない、
という声は勿論あるでしょう。私も知りません。なぜ有名にならなかったかは不明です。
では、秀吉関係でもう1つ。
【賤ヶ岳七本槍】
・脇坂安治
・片桐且元
・平野長泰
・福島正則
・加藤清正
・糟屋武則
・加藤嘉明
これは有名ですね。秀吉子飼いの賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた若手の武将達ですね。有名な武将が多いです。他にも「◯◯七本槍」という名前の括りはいくつかありますが、この七本槍が一番有名でしょう。
では、また四天王の括りに戻りまして
【武田四天王】(武田四名臣)
・馬場信春
・山県昌景
・高坂昌信
・内藤昌豊
の4人。この四天王は強いですね。信長の野望だとほぼ最強のメンツです。因みに、武田家家臣は「昌」が付く武将はかなりおおいです。「信」もかなり多いです。
武田関連ですと欠かせないのがこれですね。
【武田二十四将】※諸説あります
武田信繁
武田信廉
穴山信君
板垣信方
甘利虎泰
馬場信春
飯部虎昌
山県昌景
高坂昌信
真田幸隆
内藤昌豊
秋山信友
三枝守友
原虎胤
小山田信茂
多田満頼
真田信綱
土屋昌次
横田高松
小幡虎盛
曾根昌世
原昌胤
真田昌幸
山本勘助
の24人ですが、これは文献によってバラツキがあります。上記で書いたのは「武田二十四将図」で描かれた人物を列記しています。兎に角武田家臣は有名な武将が多いこと多いこと・・・。信長の野望では最強ですわ。
さて、それでは武田の次はライバルとして
【上杉四天王】
・宇佐美定満
・柿崎景家
・直江景綱
・甘粕景持
以上上杉謙信に仕えた4人です。武田家臣には及ばないにしてもやはり有名な4人ですね。強い・・・!
四天王シリーズで言えばこちらも。
【徳川四天王】
・本多忠勝
・井伊直政
・榊原康政
・酒井忠次
徳川家康が誇る4人の名将たちです。現在大河ドラマで放送中の「おんな城主直虎」の井伊直虎の養子である井伊直政などが有名ですかね。他3人も超名将ですね。
【徳川十六神将】
・酒井忠次
・本多忠勝
・榊原康政
・井伊直政
・米津常春
・高木清秀
・内藤正成
・大久保忠世
・大久保忠佐
・蜂屋貞次
・鳥居元忠
・鳥居忠広
・渡辺守綱
・平岩親吉
・服部正成
・松平康忠
徳川四天王の4人+他12名という構成です。他にも該当者はいますが1番有名な構成です。
あの服部半蔵も名を連ねてますね。
最後に何故か有名なこの人たち
【龍造寺四天王】
・成松信勝
・百武賢兼
・木下昌直
・江里口信常
・円城寺信胤
の5人。え?四天王なのに4人じゃないのかよ?初代ポケモンの四天王なのに最後チャンピオンがいる的なやつかよ?となってしまいますが、これに関しても文献によってバラツキがありこの5人と言われてます。面白いですが、龍造寺四天王と言えば“5人揃って四天王”というのが一般的になってます。
まだまだこういう括りは沢山ありますが、本日はその有名どころの一部を紹介させていただきました。
みなさんの知っているグループはありましたでしょうか?
特に最後の5人なのに四天王の「龍造寺四天王」は面白い構成なので覚えておいて下さいね!
それでは、本日はこれにて終了。
四天王って響きかっこいいですね〜
おやすみなさい。
どうも〜
こんばんわ〜 お疲れ様〜
なんか「〜」を語尾につけるとオネェっぽくなりますね〜
そんな本日も少しだけ更新です。
またまたミニ歴史で申し訳ないですが、お付き合いいただければと思います。
本日のタイトルは
「浜田国松vs寺内寿一」 です。
え?一体全体なんの対決だって?とお思いの方いらっしゃるでしょう。
ボクシング?いや違います。
プロ野球?でもないです。
実はこれ、国会での本議会でのやり取りの事なんです。口論、つまり言い合いですね。
いわゆる、「腹切り問答」と言われています。
腹切り問答って私の記憶では教科書にも載っている結構重要な事項かな?と思いますが、みなさんは聞き覚え・見覚えありますでしょうか。
歴史的には
「広田弘毅内閣の総辞職の原因」
としてよく知られています。
では、この浜田国松vs寺内寿一の
「腹切り問答」とはなんなのでしょうか?
少しだけみてみましょう。
この珍事は1937年1月21日の第70回帝国議会でおきます。
以下はWikipedia先生より引用します。
《事件の経過》
この日、第70回帝国議会において政友会の浜田議員が「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して…独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」と二・二六事件以降の軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行った。この時浜田は議員歴30年、前衆院議長という議会の長老で、それだけにこの演説は党派を超えて多くの議員を唸らせるものがあった。
これを聞いた寺内陸相は答弁に立って「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。ところが浜田が2度目の登壇で「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆に質問をしたため、寺内は「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直した。それでも浜田は3度目の登壇で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。これに寺内は激怒、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となった。
《事件の結果》
政府は収拾策を見出すために天皇に裁可を仰いで議会は翌日より停会となった。寺内は「政党が時局に対して認識不足」として、政党に対し反省を求める意味で議会解散を強く廣田首相に要求、解散しないなら単独辞職すると言い放った。総理はもとより、海軍予算の成立を急ぎたい永野修身海相が寺内の説得に乗り出したが、へそを曲げた寺内は結局これに応じず、広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職した。
(Wikipediaより引用)
なんともまぁ、物騒な言い争いなのですが、当時の陸軍大臣であった寺内寿一は相当あたふたしていたようですね。
それはもうベテランの浜田国松にこれだけ言われてやり込められたしまったわけですのでそうなるのも仕方ないです。
勿論、この口論は浜田国松の圧勝。寺内寿一は広田首相に解散を迫り、単独辞職する意向を述べ軍部大臣現役武官制により解散・総辞職を余儀なくされました。
この後、林銑十郎⇨近衛文麿と首相はうつっていきますが、その過程で日本は軍部の力が次第に協力になっていき日中戦争にどっぷりと足を使ってしまい抜け出せなくなり、そのまま第二次世界大戦へと進んでしまいます。
軍部の批判をしたのにも関わらず、皮肉なことにこれは結局ますます軍部の政治支配を強めてしまう遠因になってしまうんですね。
そして、第二次世界大戦へと発展してしまうという残念な結末に・・・。
こんな些細な一言から内閣が瓦解してしまい、日本の運命が変わってしまうというのは怖いですね。
まさに口は災いの元です。
余計な事は言わないに越した事はないですね。
さて、まぁ本日はこれで終わります。
こんな謎な事件があったんだー、程度に覚えておいてください。
最後に豆知識として、この事件の発端となった当時の陸相・寺内寿一はなんと皇族を抜かせば陸海軍で唯一の親子二代で元帥になった人物です。
察しのいい方は気がつくかもしれませんが、寺内寿一の父は陸軍出身の第18代首相、「寺内正毅」です。
実は親の七光り的なこともあったんですね。
寺内寿一は戦中に首相候補になったこともあり、それが実現していたら「親子二代での首相」になったかもしれないという幻の話しもあります。
と、豆知識も披露したところで本日は終了ですね!
では、また明日!
おやすみなサイ・ヤング賞!
どうもみなさん
こんばんワン(犬)!
昨日は眠すぎて更新できずにいましたが、
本日こそ更新です。
本日は軽〜く、ミニ歴史として1つお話出来たらと思いますのでお付き合い下さい。
そんな本日は題して、
「戦国時代由来の慣用句」 です。
それではいきましょう。
日本語の慣用句や故事、諺などには歴史的な事が由来している言葉は物凄く多いです。
例えば、
「早起きは三文の得」という諺があります。
これは諸説ありますが、以下に記す通りの由来があります。
かつての奈良では鹿は神の遣いとして保護されていました。その鹿が偶然にも自分の家の前で死んでいたら罰金として「三文」を払わなければいけない、という掟があったようです。
その為、家の主人は朝早起きして鹿の死体をこっそり移動させたことがあったと言います。
つまり、早起きして鹿の死体を移動してしまえば本来払うはずであった三文を払わなくてすむ、イコール「三文の得」である、とこういう風な由来があったわけです。
そこから「早起きは三文の得」として現在までも使われているんです。
このようにまだまだ歴史的な由来の慣用句や諺はあります。
その中でも、私の好きな戦国時代にはどのようなものがあるか調べてみましたので、それらを列記してみようと思います。
まず、初めに有名どころとして
「敵に塩を送る」 という言葉があります。
意味としては、敵の弱みにつけこむのではなく、逆に苦境から救うというものです。
これは知っている方も多いことだと思いますが、由来を書いていきましょう。
戦国時代に、上杉謙信が敵将の武田信玄の領国である甲斐国で塩不足により苦しんでいるのを知り、敵ながら塩を贈った、ということに由来しています。
まぁ、これは有名ですね。
続きまして2つ目です。
「洞ヶ峠を決め込む」という言葉です。
これはあまり知っている方もいないのではないかなぁ、と思います。
意味として、両者を見比べて、有利な方につこうとして形勢を見ること、また日和見的な態度をとることをいいます。
それでは、由来を見ていきましょう。
この言葉に出てくる「洞ヶ峠」とは京都の南部と大阪の枚方の間にある峠のことです。
1582年に本能寺の変が起こり、山崎の合戦で筒井順慶が羽柴秀頼か明智光秀かどちらか有利な方に加勢しようとしていたことから由来しております、
そして、3つ目は
「元の木阿弥」という言葉です。
意味としては一旦良くなったものが、再び元の状態に戻ることを言います。
そして由来ですが、これも洞ヶ峠を決め込むで出てきた筒井順慶が関わってきます。
戦国時代に筒井順昭が病死した時に、その死を隠すために子の筒井順慶が成人になるまで超えの似ていた木阿弥という漢を寝室に寝かせ来訪者をあざむき、順慶が成人して順昭が実は既に死んでいたことを公表すると順昭のフリをしていた木阿弥は再び元の身分に戻ったこと、に由来しています。
と、本日こそ3つの言葉を紹介しました。
実際はまだまだありますが、本日はこれくらいにしておきましょう。
まさかの筒井順慶が3つ中2つ絡んでいるということは面白いですね。
筒井順慶という武将も面白いので是非調べて見て下さい。
まぁ、とりあえず本日はこれくらいにしますか。
みなさんも、慣用句や諺の由来を調べてみてはいかがでしょう?
それではまた明日!
どうもこんばんワルイージサーキット!
おっと、ついマリオカートに出てくるコース名を言ってしまいました。
失敬、失敬。
そんな本日も日曜日の夜で憂鬱な状態ですが、元気に更新です。
そんな本日は久しぶりに歴史ジャンルから離れます!
文化のジャンルから1つお話をします!
いや、でもこれは私にとっては大切な歴史の1ページなので「歴史」のカテゴリーなのかなぁ・・・。
と、そんな本日は
「遊戯王カードのはなし」
です。それではいきましょう。
ブルーアイズホワイトドラゴン!!!
もう、この言葉だけで自分の興奮を抑えられない。
幼少期の楽しかった思い出が蘇る。
あの時は良かったなぁ〜、と今でもふと思い返す時がある。
多くの時間とお金を使いその対価として最高の思い出を手に入れた。
それが私の中の「遊戯王カード」である。
どうだろう、みなさんもそんな経験のある一人では無いだろうか?
私たちの年代なら誰しもがこのカードで遊んだことがあるだろう。
それくらい爆発的に流行したカードゲームであった。
少しだけ遊戯王カードについて詳しく見てみよう。
1999年2月4日に「Vol.1」が発売されて以来、ブースターシリーズだけでも70弾以上(2015年4月現在)、2014年1月に15周年を迎える長期シリーズとなっている。カードゲームとしてだけでなく、原作漫画・アニメのグッズとしての側面も持ち、幅広い層に人気がある。
本作は日本国外にも展開しており、2009年7月7日にはギネス・ワールド・レコーズに「世界で最も販売枚数の多いトレーディングカードゲーム」として認定された。
更に2011年6月14日には記録を自己更新し、販売枚数251億7000万枚を突破している[2]。
メディアミックスに伴い、数年おきに商品名称、及びロゴデザインが下記のように変更されている。名称が変更されても過去のカードと完全互換で使用できるように、カード裏面のロゴデザインは「デュエルモンスターズ」から変更されていない。2017年3月からは再び「デュエルモンスターズ」のロゴに戻し展開されている。
(Wikipediaより引用)
その伝説は1999年に始まったようだ。
当時私は6歳であったらしい。今でも私の脳裏にこの第一弾のカードのパックを買ったのが鮮明に焼きついている。
そして、「世界で最も販売枚数の多いトレーディングカードゲーム」としてギネス記録に登録されているのだという。
やはりそうだろう。凄いもん、このカードゲーム。
そして今現在もトレーディングカードゲームの第一線を走り続けて居る。まさにトレーディングカードゲームの界のイチローだ。
兎に角子供達を魅了するのはなんといっても、カードのデザインだろう。
正直、今のカードは原作者がデザインをしていないので全然魅力は感じられないが発売当時から初期の数年は本当にデザインがカッコよかった。
まずは何と言っても
「青眼の白龍(ブルーアイズホワイトドラゴン)」
王道にして最高のカード。
このカッコ良さは直接脳に訴えかけてくる。
洗礼されていて無駄が本当にない。
続いて、
「真紅眼の黒竜(レッドアイズブラックドラゴン)」
いやー、これも本当にカッコいい〜。
カード自体は弱いけどこのデザインこそ至高であろう。本当に好き。
そして、
「エルフの剣士」
これもヤバイね。人物系のモンスターであるが、この“ザ・戦士”っぽい感じが凄い伝わる。最高かよ。
さらには、
「リボルバードラゴン」
個人的にデザインが好き。中二心を擽るデザインだと思う。今にもこのモンスターが襲ってきそうな躍動感もある。
最後にこれ!
「ツインテール」
う〜ん、これはカッコいいというか気持ち悪い。けども、初期のカードのデザインのいいところはこういった雑魚カードもしっかり描いているところ。そして、トコトン気持ち悪さを描いているのがまた良い。
さて、みなさんの好きなカードはなんだろう?
兎にも角にも私は子供の時にプレイした遊戯王カードが今でも好きだ!
あの頃に戻りたい!!!
遊戯王カードが好きな人是非、語り合おう!!
というわけで、遊戯王カードについて私の想いを熱く語ってしまいました。
多分幼少期の補整がかかっていることもあるだろうけど本当に最高の思い出しかありません。
今度実家に帰った時にカード見てみよう、と思う23歳の夏でした。
以上、それではまた明日〜。
プロフィール
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ワタナベ
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