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ナベログ!

ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ

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どうも。
最近は転勤にあたって引越しの準備やらなんやらで忙しくてなかなか更新ができずじまいでした。

というわけで忙しい中でも偶には書かなければ、と思い更新です。


本日は、サクッと最近仕入れた情報を1つ。



先日、会社の方々と話題になったことがありました。

「堀部安兵衛って新発田出身なのに、どうして赤穂浪士に名を連ねていたの?」


ということ。
新潟にいるので新発田出身の堀部安兵衛の話が話題に上がったのです。


堀部安兵衛と言えば「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士1人であります。


先輩方に、説明を求められたので頭の片隅にあった薄〜い知識で


「あー、それは定かではないのですが確か元々堀部安兵衛は新発田出身でしたけど赤穂藩の堀部家の養子になったからですよー」


と答えました。

キッとそうだろう!と面白いましたが、少し不安になって後々調べました。




寛文10年(1670年)、越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。(中略)
母は、武庸を出産した直後の同年5月に死去したため、しばらくは母方の祖母のところへ送られて、祖母を母代わりにして3歳まで育てられたが、祖母が死去すると再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる。しかし、武庸が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。
(中略)
浪人後、ほどなくして父が死去。孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父・盛政に引き取られたが、盛政もその後2年ほどで死去したため、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。元禄元年(1688年)、19歳になった武庸は、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王(他の3人は奥田孫太夫、菱沼式兵衛、塩入主膳)と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現・新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。
そのようななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。武庸と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)。
この決闘での武庸の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望んだ。はじめ武庸は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、金丸の思い入れは強く、ついには主君の浅野長矩に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。長矩も噂の剣客・中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
これを聞いてさすがの武庸もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、金丸の娘・ほりと結婚して、金丸の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に金丸が隠居し、武庸が家督相続。このとき、武庸は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。
(Wikipediaより引用)



うーん、まぁほぼほぼ正解でしょう。

婿養子として養子縁組したのですね。
これは少し記憶が欠損してましたね。



新発田藩から赤穂藩へと、物凄く距離がありますがそういった経緯があったのです。
やっぱり歴史は面白いなぁ、




さーて、また明日も引越しの準備なのでそろそろ寝ますか。

それではお休みなさい。

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どうも、こんにちわんだふる!

お盆休みはゆっくり休みますリフレッシュしました。

というわけで、ナベログも暫し小休止しておりました。


本日は少々時間が空いてしまったのでブログ執筆の身体を慣らそう、ということで少しだけ。
メモ的な感じで書こうかなと思います。



8月15日にNHKで興味深い放送がありました。

NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」

という番組です。

太平洋戦争で非常に有名な負け戦、インパール作戦についての特集でした。

「牟田口廉也」という人物の名前を聞いたことのある人が多いのではないかと思いますが、その牟田口中将がやらかした日本陸軍最悪の作戦でした。


それはもう、悲惨という言葉しか当てはまらない地獄。
こんなことがあったのか、と驚愕せざるを得ない戦いでした。

非常に簡潔にまとめられている番組で非常に興味深く視聴しました。

8月26日にもまた放送があるということなので、また見ようかなと。見てない方も是非。


まぁ、番宣ということで多くは語りません。




そんな中、このインパール作戦についてのネットで下記の書き込みがあり笑ってしまいました。




480: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/08/17(木) 11:49:45.67 ID:KAOk+/Vr0
満州で中央無視して独断で戦線拡大しても
それで出世できるならみんなやるよな

そして自分が中央戻った時に
独断専行止められなくて連鎖する

526: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/08/17(木) 11:57:04.96 ID:0BYP3Uwsd
>>480
石原「満州事変の時間だあああああああああ」
南、金谷「ああ…もう無茶苦茶だよ!」

武藤「北支事変が起きたし、戦線拡大させて中華民国を属国にさせたろ!」
石原作戦部長「ああ…もう無茶苦茶だよ…」

田中作戦部長「日米開戦の時間だあああああああ」
武藤軍務局長「ああ…もう無茶苦茶だよ…」






この流れは滅茶苦茶面白いですね。
本当に太平洋戦争期は面白いことばかり。


勉強しててあきませんね。



みなさんも是非面白いので、この時代を勉強なさるのは如何でしょうか?



それでは本日はこれにて。


それではまた!

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どうもー
こんばんわ〜(IKKO風)

最近は少し更新の頻度を落ち着かせてます。
そう、ネタ切れもいいところなんです。

唯一のファンも暇を脱したようだし、需要と供給を保とうということもありますので2日に1回更新くらいのペースでゆるりといきますかね。



さて、本日も歴史系の話でミニ歴史を少々。


タイトルは
「特務士官とは?」 です!



ではいきますか。



軍人には階級というものがあります。

陸・海軍殆ど共通で下は二等兵から上は大将までです。(太平洋戦争期)
因みによく言う「元帥」というのは大将に与えられた称号ですので階級とはまた少し違います。



その階級を表す時に「特務士官」という階級がかつて存在しました。

普通の「士官」と何が違うの?
と思うかもしれませんが、実は全くの別物なんです。

まず、士官とは将校のことで階級的には少尉以上の兵隊のことを指します。



特務士官も勿論、少尉以上の兵隊を指すのですが「特務」が付いている特務士官は通常の少尉よりも格下とされ区別というより差別をされていました。


では具体的にどういう人が特務士官になるのが説明していきます。


特務士官の階級があるのは帝国海軍のみで陸軍にはこのような制度はありませんでした。海軍はエリート主義と呼ばれるように超学歴主義で出世は学歴によりました。
(陸軍はある程度平等なところはありました)

ですので、通常士官になるには海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校などの学校を卒業しなければ原則なれません。
しかし、そうなるとそれらの兵学校を出ていない軍人は士官にはなれず兵曹長レベルで頭打ちになってしまいます。

そのため、兵学校を出ていない叩き上げの軍人がそれより上に出世する為に「特務士官」という階級を設け、任じました。



ですので、同じ「少尉」であっても
・非エリート叩き上げ➡︎特務少尉
・兵学校卒のエリート➡︎少尉
と呼び差をつけていました。



海軍兵学校などの出身者はスタートが少尉からですから叩き上げの特務少尉はもうかなりのベテランという不思議な状態になります。


海軍の規律ではベテラン特務中尉よりも新米少尉の方が偉く指揮権は新米少尉にある、という歪な構図が生まれていました。
従って、大尉➡︎中尉➡︎少尉➡︎特務大尉➡︎特務中尉➡︎特務少尉➡︎兵曹長・・・

というように「士官」ではあるけど一段格下のような扱いでした。



特務士官で著名な方といえば「大空のサムライ」で有名な坂井三郎氏。
彼は海軍の叩き上げで38歳で特務少尉となっています。
やはり、出世は大分遅いですね。



とにかく、特務士官は角落ちの士官と覚えておいてください。

「特務」とか付けばなんかカッコいい!!
と思う気もしますがじつは非エリートなんです。
しかし、そういう叩き上げのベテラン特務士官ほど戦時中には活躍が華々しかったりしましたので特務士官様々ですね。



海軍ほど学歴主義だと嫌になってしまいますね、私も学はないので特務士官みたいに叩き上げでサラリーマン生活頑張ろうと思いました。


それでは、また!



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どうもー
こんにちわー

三連休最終日〜 うぇーい( ✌︎'ω')✌︎


ということで悲しいのでテンション上げていきましょう。


今回の三連休はひたすらダラダラしていましたね、いつも通りの休日。

しかし、もう少しで環境が変わるのでそれを境にアクティブになろうと思い今はひたすらダラダラしようと、そんな心持ちでございます。




さて、本日はミニ歴史ということでサクッといきましょう!


本日は題して

「干支と時間」 です。


では、いきましょう。




よく時代劇などで、「〇〇の刻に・・・」とか聞いたこと無いですか?

現代でも「丑の刻参り」と言う言葉も残っているので少しはピンとくるのでは無いでしょうか。


これは干支で時間を表している「十二時辰」というものです。


こういう表し方があるのは知っているけど、それが何時なのか分からない!

という人も多いはず、、、。ですので、今回は少しこれについて見ていきましょう。



と、言っても物凄く簡単です。干支さえ言えればなんてことはないです。




子の刻➡︎時刻としては00時、時間帯としては23時〜01時

丑の刻➡︎時刻としては02時、時間帯としては01時〜03時

寅の刻➡︎時刻としては04時、時間帯としては03時〜05時

卯の刻➡︎時刻としては06時、時間帯としては05時〜07時

辰の刻➡︎時刻としては08時、時間帯としては07時〜09時

巳の刻➡︎時刻としては10時、時間帯としては09時〜11時

午の刻➡︎時刻としては12時、時間帯としては11時〜13時

未の刻➡︎時刻としては14時、時間帯としては13時〜15時

申の刻➡︎時刻としては16時、時間帯としては15時〜17時

酉の刻➡︎時刻としては18時、時間帯としては17時〜19時

戌の刻➡︎時刻としては20時、時間帯としては19時〜21時

亥の刻➡︎時刻としては22時、時間帯としては21時〜23時


と、このような感じで時間が振り分けられています。
1つの干支で2時間ずつ幅があるんですね。
それはそうですよね、1日24時間で干支が12種類ですから。

簡単ですよね、0時から子、それを亥まで2時間ずつ数えていけば一周するという明朗な数えたです。



この中でも少し細かく分けて30分単位などでも表しますが、今回は簡単にこれだけ紹介します。
気になる方は調べて見てください。


因みに、「四六時中」という言葉がありますがこれもこの昔の時間の表し方に由来しています。

元々、「四六時中」は「二六時中」という言葉でした。
「二六時中」は上記のように干支で十二刻を表していた時に「2×6=12」となることから一日中を意味していたと言います。

それを現代の24時間表記にならって、「4×6=24」ということで「四六時中」となったのです。



もう1つ関連して豆知識を披露しますと、12時00分を正午というのは「午の正刻」からきている、というのもこの干支の十二刻からきています。




さて、本日はこれにて終了しますがこれで時代劇を見ていて「寅の刻に向かう」といったら大体明け方の4時前後だと思いながら見てください。



因みに、「丑の刻参り」は午前2時前後の事を指します。
ひゃ〜怖い怖い。


それでは、そろそろ「酉の刻」ですので夕食にしますか。



それではまた明日?






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どうも、こんばんわ。
今日も暑いですね。お疲れ様です。


そんな本日も、またまたまたミニ歴史を1つ。

歴史ばかりで申し訳ないですが、
誰も見ていないのでまぁいいかなぁと思います。

タイトルは
「数字で見る戦国武将たち」です。

ではいきましょう。


まずはじめに「数字で見る」とは数字や数値で何かを分析するとかそういった意味ではありません。

今回書くのは、よくある数字がつくもの、例えば「◯◯四天王」などの数字で括りのある戦国武将たちをまとめてみようかなと、そういう意味です。

結構、こういう数字の括り?みたいなグループはあるので代表的なものをまとめてみました。



ではまず有名どころからいきましょう!


【織田四天王】
・柴田勝家
・滝川一益
・明智光秀
・丹羽長秀

の4人です。あれ?秀吉は?と思う方もいらっしゃると思いますが、俗にいう織田四天王とはこの4人なんです。

ですが、この4人に
・羽柴秀吉
を加えて【織田五大将】と呼ぶこともあります。



関連して次はこれ!
【羽柴四天王】
・宮田光次
・神子田正治
・尾藤知宣
・戸田勝隆

の4人。え?誰この人たち、全く知らない、
という声は勿論あるでしょう。私も知りません。なぜ有名にならなかったかは不明です。


では、秀吉関係でもう1つ。
【賤ヶ岳七本槍】
・脇坂安治
・片桐且元
・平野長泰
・福島正則
・加藤清正
・糟屋武則
・加藤嘉明

これは有名ですね。秀吉子飼いの賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた若手の武将達ですね。有名な武将が多いです。他にも「◯◯七本槍」という名前の括りはいくつかありますが、この七本槍が一番有名でしょう。


では、また四天王の括りに戻りまして
【武田四天王】(武田四名臣)
・馬場信春
・山県昌景
・高坂昌信
・内藤昌豊

の4人。この四天王は強いですね。信長の野望だとほぼ最強のメンツです。因みに、武田家家臣は「昌」が付く武将はかなりおおいです。「信」もかなり多いです。



武田関連ですと欠かせないのがこれですね。
【武田二十四将】※諸説あります
武田信繁
武田信廉
穴山信君
板垣信方
甘利虎泰
馬場信春
飯部虎昌
山県昌景
高坂昌信
真田幸隆
内藤昌豊
秋山信友
三枝守友
原虎胤
小山田信茂
多田満頼
真田信綱
土屋昌次
横田高松
小幡虎盛
曾根昌世
原昌胤
真田昌幸
山本勘助

の24人ですが、これは文献によってバラツキがあります。上記で書いたのは「武田二十四将図」で描かれた人物を列記しています。兎に角武田家臣は有名な武将が多いこと多いこと・・・。信長の野望では最強ですわ。


さて、それでは武田の次はライバルとして
【上杉四天王】
・宇佐美定満
・柿崎景家
・直江景綱
・甘粕景持

以上上杉謙信に仕えた4人です。武田家臣には及ばないにしてもやはり有名な4人ですね。強い・・・!


四天王シリーズで言えばこちらも。
【徳川四天王】
・本多忠勝
・井伊直政
・榊原康政
・酒井忠次

徳川家康が誇る4人の名将たちです。現在大河ドラマで放送中の「おんな城主直虎」の井伊直虎の養子である井伊直政などが有名ですかね。他3人も超名将ですね。


【徳川十六神将】
・酒井忠次
・本多忠勝
・榊原康政
・井伊直政
・米津常春
・高木清秀
・内藤正成
・大久保忠世
・大久保忠佐
・蜂屋貞次
・鳥居元忠
・鳥居忠広
・渡辺守綱
・平岩親吉
・服部正成
・松平康忠

徳川四天王の4人+他12名という構成です。他にも該当者はいますが1番有名な構成です。
あの服部半蔵も名を連ねてますね。



最後に何故か有名なこの人たち
【龍造寺四天王】
・成松信勝
・百武賢兼
・木下昌直
・江里口信常
・円城寺信胤

の5人。え?四天王なのに4人じゃないのかよ?初代ポケモンの四天王なのに最後チャンピオンがいる的なやつかよ?となってしまいますが、これに関しても文献によってバラツキがありこの5人と言われてます。面白いですが、龍造寺四天王と言えば“5人揃って四天王”というのが一般的になってます。





まだまだこういう括りは沢山ありますが、本日はその有名どころの一部を紹介させていただきました。

みなさんの知っているグループはありましたでしょうか?


特に最後の5人なのに四天王の「龍造寺四天王」は面白い構成なので覚えておいて下さいね!


それでは、本日はこれにて終了。


四天王って響きかっこいいですね〜


おやすみなさい。

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どうも〜
こんばんわ〜 お疲れ様〜

なんか「〜」を語尾につけるとオネェっぽくなりますね〜

そんな本日も少しだけ更新です。


またまたミニ歴史で申し訳ないですが、お付き合いいただければと思います。


本日のタイトルは
「浜田国松vs寺内寿一」 です。


え?一体全体なんの対決だって?とお思いの方いらっしゃるでしょう。

ボクシング?いや違います。
プロ野球?でもないです。


実はこれ、国会での本議会でのやり取りの事なんです。口論、つまり言い合いですね。


いわゆる、「腹切り問答」と言われています。
腹切り問答って私の記憶では教科書にも載っている結構重要な事項かな?と思いますが、みなさんは聞き覚え・見覚えありますでしょうか。


歴史的には

「広田弘毅内閣の総辞職の原因」

としてよく知られています。



では、この浜田国松vs寺内寿一の
「腹切り問答」とはなんなのでしょうか?
少しだけみてみましょう。



この珍事は1937年1月21日の第70回帝国議会でおきます。

以下はWikipedia先生より引用します。



《事件の経過》
この日、第70回帝国議会において政友会の浜田議員が「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して…独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」と二・二六事件以降の軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行った。この時浜田は議員歴30年、前衆院議長という議会の長老で、それだけにこの演説は党派を超えて多くの議員を唸らせるものがあった。

これを聞いた寺内陸相は答弁に立って「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。ところが浜田が2度目の登壇で「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆に質問をしたため、寺内は「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直した。それでも浜田は3度目の登壇で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。これに寺内は激怒、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となった。

《事件の結果》
政府は収拾策を見出すために天皇に裁可を仰いで議会は翌日より停会となった。寺内は「政党が時局に対して認識不足」として、政党に対し反省を求める意味で議会解散を強く廣田首相に要求、解散しないなら単独辞職すると言い放った。総理はもとより、海軍予算の成立を急ぎたい永野修身海相が寺内の説得に乗り出したが、へそを曲げた寺内は結局これに応じず、広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職した。

(Wikipediaより引用)



なんともまぁ、物騒な言い争いなのですが、当時の陸軍大臣であった寺内寿一は相当あたふたしていたようですね。
それはもうベテランの浜田国松にこれだけ言われてやり込められたしまったわけですのでそうなるのも仕方ないです。

勿論、この口論は浜田国松の圧勝。寺内寿一は広田首相に解散を迫り、単独辞職する意向を述べ軍部大臣現役武官制により解散・総辞職を余儀なくされました。


この後、林銑十郎⇨近衛文麿と首相はうつっていきますが、その過程で日本は軍部の力が次第に協力になっていき日中戦争にどっぷりと足を使ってしまい抜け出せなくなり、そのまま第二次世界大戦へと進んでしまいます。



軍部の批判をしたのにも関わらず、皮肉なことにこれは結局ますます軍部の政治支配を強めてしまう遠因になってしまうんですね。
そして、第二次世界大戦へと発展してしまうという残念な結末に・・・。




こんな些細な一言から内閣が瓦解してしまい、日本の運命が変わってしまうというのは怖いですね。

まさに口は災いの元です。



余計な事は言わないに越した事はないですね。


さて、まぁ本日はこれで終わります。
こんな謎な事件があったんだー、程度に覚えておいてください。




最後に豆知識として、この事件の発端となった当時の陸相・寺内寿一はなんと皇族を抜かせば陸海軍で唯一の親子二代で元帥になった人物です。

察しのいい方は気がつくかもしれませんが、寺内寿一の父は陸軍出身の第18代首相、「寺内正毅」です。
実は親の七光り的なこともあったんですね。


寺内寿一は戦中に首相候補になったこともあり、それが実現していたら「親子二代での首相」になったかもしれないという幻の話しもあります。




と、豆知識も披露したところで本日は終了ですね!



では、また明日!

おやすみなサイ・ヤング賞!



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どうもみなさん
こんばんワン(犬)!

昨日は眠すぎて更新できずにいましたが、
本日こそ更新です。

本日は軽〜く、ミニ歴史として1つお話出来たらと思いますのでお付き合い下さい。


そんな本日は題して、
「戦国時代由来の慣用句」 です。

それではいきましょう。


日本語の慣用句や故事、諺などには歴史的な事が由来している言葉は物凄く多いです。

例えば、
「早起きは三文の得」という諺があります。

これは諸説ありますが、以下に記す通りの由来があります。
かつての奈良では鹿は神の遣いとして保護されていました。その鹿が偶然にも自分の家の前で死んでいたら罰金として「三文」を払わなければいけない、という掟があったようです。
その為、家の主人は朝早起きして鹿の死体をこっそり移動させたことがあったと言います。
つまり、早起きして鹿の死体を移動してしまえば本来払うはずであった三文を払わなくてすむ、イコール「三文の得」である、とこういう風な由来があったわけです。

そこから「早起きは三文の得」として現在までも使われているんです。



このようにまだまだ歴史的な由来の慣用句や諺はあります。


その中でも、私の好きな戦国時代にはどのようなものがあるか調べてみましたので、それらを列記してみようと思います。




まず、初めに有名どころとして
「敵に塩を送る」 という言葉があります。
意味としては、敵の弱みにつけこむのではなく、逆に苦境から救うというものです。


これは知っている方も多いことだと思いますが、由来を書いていきましょう。

戦国時代に、上杉謙信が敵将の武田信玄の領国である甲斐国で塩不足により苦しんでいるのを知り、敵ながら塩を贈った、ということに由来しています。


まぁ、これは有名ですね。




続きまして2つ目です。
「洞ヶ峠を決め込む」という言葉です。

これはあまり知っている方もいないのではないかなぁ、と思います。
意味として、両者を見比べて、有利な方につこうとして形勢を見ること、また日和見的な態度をとることをいいます。

それでは、由来を見ていきましょう。

この言葉に出てくる「洞ヶ峠」とは京都の南部と大阪の枚方の間にある峠のことです。
1582年に本能寺の変が起こり、山崎の合戦で筒井順慶が羽柴秀頼か明智光秀かどちらか有利な方に加勢しようとしていたことから由来しております、



そして、3つ目は
「元の木阿弥」という言葉です。

意味としては一旦良くなったものが、再び元の状態に戻ることを言います。

そして由来ですが、これも洞ヶ峠を決め込むで出てきた筒井順慶が関わってきます。
戦国時代に筒井順昭が病死した時に、その死を隠すために子の筒井順慶が成人になるまで超えの似ていた木阿弥という漢を寝室に寝かせ来訪者をあざむき、順慶が成人して順昭が実は既に死んでいたことを公表すると順昭のフリをしていた木阿弥は再び元の身分に戻ったこと、に由来しています。



と、本日こそ3つの言葉を紹介しました。
実際はまだまだありますが、本日はこれくらいにしておきましょう。


まさかの筒井順慶が3つ中2つ絡んでいるということは面白いですね。


筒井順慶という武将も面白いので是非調べて見て下さい。



まぁ、とりあえず本日はこれくらいにしますか。


みなさんも、慣用句や諺の由来を調べてみてはいかがでしょう?



それではまた明日!

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どうも〜
みなさんお元気ですか。
私は元気です。

今日も少しだけ書くぞ〜

今日もミニ歴史です。
ほぼほぼ、日本史ブログの体をなしてきましたがご容赦願います。

これを機にみなさんも日本史が好きになってください。


そんな今日は題して

「八丈島に流された男」 です。


「八丈島に流された男」というのは戦国時代の大名でありました「宇喜多秀家」の事です。

なぜ八丈島に流されたのかは後で言及します。
その前に少しだけこの宇喜多秀家という男についてお話します。


1572年に備前国・岡山城主でありました宇喜多直家の次男として生を受けました。
生まれは戦国時代も終盤に差し掛かっているような時であり、結構遅くに生まれたんですね〜。

1581年に父・直家が病死、1582年に家督を継ぎました。
当時宇喜多家は織田信長に従属していた時代であり、中国平定の羽柴秀吉軍に組み込まれ宇喜多家の家臣は備中高松城攻めなどに協力しました。
しかし、家督を継いだその年に本能寺の変が起こります。信長が死に、秀吉は急ぎ毛利家と和睦を結びます。
その毛利家の監視役として秀家は備中・美作・備前の所領を安堵され大名となるのでした。



その後、元服し秀吉から「秀」の字を与えられて秀家と名乗る訳です。
宇喜多家は外様であるにも関わらず、秀吉の寵愛を受け、なんと秀吉の猶子(他人の子と親子関係を結ぶ制度のこと)となり一門衆の扱いを受けました。

小牧・長久手の闘いや、紀州征伐、四国攻め、九州征伐、小田原征伐へと転戦・活躍し、朝鮮攻めに際しては大将として出陣し活躍しました。


当時は父の岡山城を拠点として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領し、官位も1594年には参議から従三位権中納言に昇叙されるなど、超がつくほど順風満帆。
1598年には五大老の一人に任ぜられ、最早その力は最高潮に達します。


しかし、そんな順風満帆な時代もすぐに終わりを迎えます。

1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。


秀家は西軍に与し、西軍の主力として出陣することとなりす。
しかし、結果はご存知の通り西軍の敗戦。
敗走し、京都に潜伏し、その後は同じ西軍の島津を頼り鹿児島まで逃げます。しかし、「鹿児島の島津が宇喜多を匿っている」という噂が広まり、徳川家康に身柄を引き渡されるのです。

西軍の主力として積極的に戦った秀家はもちろん処刑されるはず・・・ でしたが、身柄を仕方なく引き渡した島津忠恒、親戚の前田利長の懇願により死罪を免れて駿河の久能山へ幽閉されました。

そして、1606年に公式では史上初の八丈島への流罪となるわけです。


57万石の大大名から八丈島への流人・・・。
壮絶な人生ですね。

流された当時は年齢でいうと34歳、まだまだ若くこれからという時に八丈島生活という悲しい顛末。
八丈島の生活は苦しいものでしたが、なんとか色々な人の支援を受けて生活したようです。

そして、月日は流れなんと八丈島で50年も生きるのです、、、!
1655年に亡くなりました。

これは関ヶ原の戦いの参戦した大名で一番最後に亡くなったということになります。
超長生きです。


この後、宇喜多家は滅亡しますが、その子孫が脈脈と血を残し今では八丈島の秀家の墓を子孫が守り続けているようです。




いかがでしたでしょうか、波乱万丈な「これぞ戦国武将」というような人生を生き抜いた武将宇喜多秀家は。


関ヶ原の戦いで負けたのにも関わらず、戦った大名で一番長生きとか、面白いですね。


八丈島での生活は質素そのものであったと思いますのでやはり、人間は質素な生活が長生きする秘訣なのでしょうかね?

私も質素な生活で長生きしたいものです!



みなさんも宇喜多秀家のように、質素な生活で長生きしましょう!



塩分の取りすぎは禁物!!


それではまた、明日!!

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みなさんお疲れ様です。
本日は七夕!
よく小学校の時とかには給食で七夕ゼリー的なものが出てきたイメージがあります。

社会人にもなると「七夕」と、あまり実感するようなこともなくふと日付をみて思い出しました。
みなさんはどうでしょうか?

さて、本日はミニ歴史を書こうかと思います。
七夕だから七夕に関連した事とも思いましたけれど、あんまり思い浮かばなかったので明日にでも書くかも?


なのでそんな本日は有名どころから、題して

「三本の矢」 です。

それでは書いていきます。




戦国時代の有名な逸話の中に
「三本の矢の教え」という話があることはみなさんもご存知だと思います。

概略を申し上げますと、

《晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。》
(Wikipediaより引用)

上記のようなお話です。長いのでWikipediaから引用したことをお赦し下さい。



つまりは、

三本(さんぼん)の矢(や)の教(おし)え の意味
出典:デジタル大辞泉
戦国武将の毛利元就が、子の隆元・元春(吉川氏に養子)・隆景(小早川氏に養子)に授けたという教え。一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。三矢の教え。
(https://www.google.co.jp/amp/s/dictionary.goo.ne.jp/amp/jn/92091/meaning/m0u/より引用)

この最後の行、【一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。】この訓話を意味しています。


素晴らしい話だなぁ、と思いますよね。
名門・毛利家の強さを象徴したようなお話ですね。

この有名な「三本の矢」は最近でもある方によって使われましたよね。

そうです、安倍晋三首相。
数年前に“アベノミクス”として「三本の矢」を掲げたわけですけど、このアベノミクスの三本の矢も毛利家の三本の矢からとっているんですね。



ですが、この話って《創作》だったって知ってましたか?

実は毛利元就がこのような事を息子たちに話したという事はどの文献にも書かれてはいないんです。

では、何故この話が広まり有名になったのか?


それは、毛利元就が書いた『三子教訓状』という文章にルーツがあります。

元就が60歳を越えていた時、3人の息子に一致協力して毛利宗家を盛り立てていくように14条の教えを書いています。

この14条の教えを基にして「三本の矢」のエピソードが生まれたとされています。


実は創作だったってショックですよね。


しかし、毛利家は吉川元春・小早川隆景の尽力もあり中国地方を平定することができたのです。これは何と言っても兄弟三人の協力があったからこそ、ではないでしょうか。

因みに毛利家を継いだ毛利隆元は実は父・元就よりも早くに亡くなってしまうんです。なのでやはり元春、隆景のいわゆる「毛利両川」の力は強大だったということですね。


秀吉に天下を統一されてからは小早川隆景は五大老の一人に任命され、秀吉の正室である高台院の甥であった「羽柴秀俊」を養子として迎えます。それほど、秀吉にも重宝されていたのですね。
(「羽柴秀俊」は後の「小早川秀秋」です)

また、毛利元就の孫、つまり毛利隆元の子であった毛利輝元も五大老の一人に任命されていることから、豊臣政権にとって毛利家は大きな影響を及ぼし、それほどチカラがあったということです。


改めてこういうことから推測しても、三人が協力してこれほどの地位まで上り詰めたということですかね。



サンフレッチェ広島の「サンフレッチェ」は三本の矢という意味から来ているということも最後に豆知識として書いておきますね。






さて、本日はこれにて終了。

おやすみなさい。

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どうも、みなさん。
お疲れ様デストラーデ。

本日も無事に更新します。
お付き合い下さい。


そんな本日ほミニ歴史としまして

「服部半蔵只今見参!」

というタイトルで執筆します。
それではどうぞ。


「服部半蔵」というと、多くの人は忍者を想像するのではないでしょうか?

でも、実際には服部半蔵って忍者ではなかったって知っていましたでしょうか?

そして、この「服部半蔵」という名前は襲名制であったということもあまり知られていないでしょう。
なんと服部半蔵は戦国時代から江戸時代にかけて数人いたのです。



ではなぜ、「服部半蔵」が忍者の代名詞になったのかと言うとそれは初代の服部半蔵まで遡ります。

「服部半蔵は忍者ではない」と先ほど申し上げましたが、これは訂正します。
「服部半蔵は“ほぼ”忍者ではない」というのが正確ですね。

というのも初代・服部半蔵保長は伊賀出身の忍者でした。初めは室町幕府の12代将軍、足利義晴に仕え、後に松平清康に仕えました。
そう、初代だけは忍者でした。


その保長の子が「服部半蔵正成」でした。正成はこの服部半蔵の中で一番有名な服部半蔵であり、この方のおかげでこれほど有名になったのでしょう。

服部半蔵正成は、徳川家康に仕える武将でした。

父が伊賀出身ということもあり、伊賀同心の配下をつけられました。
つまりは、忍者を率いるリーダーのようなポジションで活躍します。

正成は家康の懐刀として重宝され、後に徳川十六将の一人として名を連ねます。
また、槍の名手としてもよく知られており武勇に秀で「鬼半蔵」の異名を持っています。


よく言われる例えですが、分かりやすく説明すると徳川社の忍者課の課長のようなものと考えていただければ分かりやすいかと思います。


家康が関東に転封後に、東京のあるところに屋敷を建てたことから彼の名に因んだ名前の地名があるのですが分かりますでしょうか?

そう、地下鉄の路線名にもなっている「半蔵門」という地名が服部半蔵正成から名付けられているのです。




正成以後、服部半蔵は継承され江戸末期まで居たとされます。


しかし、今の服部半蔵のイメージはこの2代目の活躍によるところが多く。

やはり服部半蔵正成の活躍がいかに目覚しかったかが分かりますね。


さて、今日は少し早いけどこれにて終了です。


また明日!

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