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ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ

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どうもみなさんこんにちわ。
なんと今年ももう本日で1年の折り返しです。
早いものですね〜。

そんな本日は諸事情により更新できなかったので日付をバックデイトして不正更新です。

そんな本日はミニ歴史をお送りしようと思います。


今日のタイトルは

「お家存続の秘策」 です。



話は遠い昔の戦国時代。
各国の戦国大名達は、群雄割拠の戦国時代をいかに生き残るか、そしていかに家を存続するかが最重要なことでした。

大名家に男系の嫡子が生まれない、唯一の嫡男が戦死・病死してしまう、など様々なことで大名家の家の存続が途絶えてしまいます。

そんな中で3つの大名家のお家存続の秘策を本日はご紹介します。
実はこの三大名家全て同じ時期に同じ秘策を使って未来に家を残しております。
ではでは、その秘策とは!?



まず、1つ目の家は昨年2016年の大河ドラマで一層有名になった【真田家】です。
現在の長野県の小県郡の周辺を所領としていた大名家です。

大河ドラマ『真田丸』を観ていた方や、真田家の経緯について明るい方はこの秘策をよくご存知だと思います。


時は1600年関ヶ原の戦い。
東西で天下分け目の大戦が始まろうとしていたわけです。

この時の真田家は当主は「真田昌幸」という戦国屈指の策略家。
昌幸には2人の息子がおりました。
長男が「真田信之」、次男が有名な「真田信繁(幸村)」です。


関ヶ原の戦いは豊臣秀吉恩顧の石田三成(総大将は毛利輝元)vs五大老の筆頭の徳川家康、
という構図というのはみなさんも学生時代に学習したところだとは思いますが、実は真田家は少し複雑でした。

従来、真田家は豊臣秀吉に忠誠を尽くし自身の所領を安堵された経緯があります。また真田信繁(幸村)は豊臣秀吉の馬廻衆(側近のようなもの)として活躍していました。さらに、真田家と徳川家は因縁があり何度も戦をしています。
そういった理由から真田家は徳川家を支持する、というより豊臣家、三成を支持するのは必然なものがありました。
(そもそも関ヶ原の戦い自体が、豊臣家臣団の内紛ではあるが)

しかし、長男の信之は徳川家康の養娘を娶っておりました。その為、信之は徳川家につかざるを得ない状況下にありました。

そこで、真田家は親子3人で合議をします。
出した結論は昌幸・信繁を西軍(三成側)、長男・信之を東軍(家康側)に分かれて出陣する、というものでした。

勿論上記の複雑な理由があったにせよ、戦国時代は裏切りの時代。そんなものは裏切りってしまえば終わりです。
そして、今回のタイトルの通り、真田家は「お家存続の秘策」としてどちらか一方が負けてももう一方を存続させる決断をしたのです。


結果として東軍勝利に終わり、信之はその後真田家を存続させることに成功したのです。
これは真田家の秘策のおかげでしょう。





そして2つ目の家は【九鬼家】です。
耳にしたことがない方もいらっしゃると思いますが、この九鬼家、実は海賊として有名な大名家でした。
九鬼家は当時の志摩国、現在では三重県の一部を所領としていました。

戦国時代には九鬼嘉隆が当主でした。
嘉隆は織田信長・豊臣秀吉のお抱えの「水軍」として各国に猛威を振るっていました。

そんな九鬼家も1600年の関ヶ原の戦いで「お家存続の秘策」を繰り出します。

1600年当時、当主であった「九鬼嘉隆」はその3年前の1597年に隠居し息子の「九鬼守隆」に家督を譲っていました。

九鬼家も東軍・西軍、どちらに与するか迷います。
迷った末に嘉隆は結論を出します。
嘉隆は西軍に与し、守隆は東軍に与す、というものでした。
やはり、前述している真田家と同じ方法です。

どちらかが負けても家を存続させるように、と・・・。

西軍に与した嘉隆は鳥羽城の奪取、そして安濃津の戦いに勝利するなど活躍をしますが、結局西軍は敗戦。自害します。

一方、守隆は東軍として勝利。戦後生き延び初代鳥羽藩主となりました。


この九鬼家もこの策が功を奏してお家を存続させることができたのです。




最後に3つ目は【津軽家】です。
“津軽”という言葉でピンとくるかもしれませんが、その名前の通り現在の青森県の戦国大名家です。
この津軽家は津軽為信の時代に所謂、下克上を成功させ大名へと成り上がりました。
この津軽の成り上がりの話も面白いのでまたの機会にお話でもしましょう。


津軽家の関ヶ原の戦いはどのような状況だったのか、少し見ていきましょう。

元々、前述した津軽が大名家へと下克上を果たした時に当時の天下人であった豊臣秀吉には大名としてその所領を認められてなかったんです。
その津軽家の当主・津軽為信は豊臣家の奉行であった石田三成を介して秀吉に謁見。そして所領を安堵してもらうのです。
しかし、その後に隣国の南部家が惣無事令(秀吉に許可なく合戦をしてはいけないという法規)を無視していると訴え、秀吉の怒りを買い津軽家を征伐されそうになります。

しかし、それを釈明するべく石田三成らに取次をしてもらい釈明。秀吉に許され、漸く大名として認められました。

津軽為信は石田三成が秀吉と引き合わせてくれて三成に非常に感謝していたとのだといいます。


そんな中、関ヶ原の戦いが勃発します。
津軽為信は大名として認めてもらった豊臣家、そして、その豊臣家と繋がるきっかけになった三成率いる西軍に与したかったのですが、津軽家の所領を頭の中で思い描いて下さい。

そう、現在の青森県ということは当然周りの国々は東軍の味方なんです。
ここで津軽家だけ西軍に与することになれば・・・
という状況でした。

その為、「津軽為信」は三男・「津軽信枚」と共に東軍に与します。

しかし、嫡男の「津軽信建」はこの時豊臣秀頼の小姓として大阪城におりました。
そういった事情から自ずと信建は西軍に与します。


戦後はこの、3人とも生き残るもののこの、津軽家もお家存続の秘策として家を二分させたと考えられています。






どうでしょう。
戦国時代にはこのような手を駆使してなんとか家を存続させようとしていました。


親子で敵味方に別れて戦う、戦うというなんとも非情な話ですがこういったことで後世まで家の名を残したかったのでしょう。


現代ではもうそのようなことをする必要はありませんが、私も自分の家が私で途切れないように頑張りたいものです。

レッツ、お家存続!



頑張りましょう!!



それではまた。




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どうも!
こんばんワイマール憲法!

ということで本日もブログ更新の時間がやってまいりました。
本日も少しバタバタしており、ミニ歴史でお送りします。

最近は近代の日本史に重点を置きがちで執筆しておりますので本日もその流れに乗って近代の話を一つ。

元々近・現代は私の専攻分野でもあり興味があるので記事がどうしても偏ってしまうのは御容赦願います。



それでは本日のタイトルは

「バロン西とウラヌス」 です。



太平洋戦争では多くの方が亡くなったのは周知の事実でありますが、多くの有名人やスポーツ選手なども亡くなっています。

例えば、プロ野球選手の沢村栄治投手や歌手の上原敏氏などは有名です。

そういった、戦死された著名な方々の1人にバロン西こと「西 竹一(にし たけいち)」さんがいます。


今回はその西竹一について話します。

西は旧日本陸軍の軍人でありました。1902年に東京で生まれ、なんと家柄は華族という華々しい家柄でした。そのために愛称は「バロン西」と呼ばれました。



学習院初等科に通っていた際に学長である乃木希典の影響で軍人を目指すようになります。

広島陸軍地方幼年学校⇨陸軍中央幼年学校⇨陸軍士官学校という所謂軍人のエリートコースを進みました。

華族だった為に幼少から乗馬を嗜んでいたこともあり、兵科は騎兵選択します。その後は陸軍騎兵学校を最終的に卒業し一人前の騎兵としてその後の人生を送ることになります。


1930年、彼にとって人生の転機が訪れました。軍務でイタリアに出張していた際に「ウラヌス」という一頭の馬に出会います。
西は騎兵であり、勿論幼少から嗜んでいた乗馬を継続していましたのでこのウラヌスを気に入り自費で購入します。

ウラヌスとのコンビで様々な乗馬の大会に参加し、数々の好成績を収めました。


その後もウラヌスと共に馬術で活躍をしていき、1932年にはロサンゼルスオリンピックに出場することとなりました。

ロサンゼルスオリンピックでは馬術大障害飛越競技に出場し、西とウラヌスはなんと優勝。金メダリストとなるのです。


そう、西竹一はなんとオリンピックの金メダリストなのであります。

どうでしょう?まさか、金メダリストが太平洋戦争に参加していたということは思いもしなかったのではないでしょうか。


勿論、上記の戦死した有名人であげました沢村栄治や上原敏などは職業軍人ではありませんが、こいうった軍人であってもスポーツ界で華々しい成績を収めた軍人がいたというのは意外な事実ではないでしょうか。


因みに、2017年現在で日本人の馬術競技でメダルを獲得した唯一の選手だというから驚きです。



その後、日本陸軍が近代化と共に花形であった騎兵よりも、装甲車を使用した戦車兵をより、重視したこともあり騎兵から戦車兵へと転科します。


1943年には陸軍中佐まで上り詰め、その翌年には戦車第26連隊の連隊長に任命されます。

戦車第26連隊は当初はサイパンへ派遣される予定でしたが、派遣される前に玉砕。変わって、硫黄島への動員が決定します。

硫黄島へ赴任する前に東京で赴任準備をしていた際はよくウラヌスがいた馬事公苑へ行き会いにいってたようです。
ウラヌスも西の足跡で、西だと判別するなど西とウラヌスの間には何年経っても強い絆で結ばれていたのだと思われます。


しかし、ご存知の通り硫黄島というのは太平洋戦争の中でも大変激戦地でした。
西もこの硫黄島土地で1945年に戦死を遂げました。


馬事公苑で余生を送っていた愛馬ウラヌスも西の戦死後後を追うように亡くなったといいます。


西本人も、生きて帰ってまたウラヌスと馬場の中を駆け回りたかったことでしょう。
さぞ、無念だったことだと思います。





実は戦死された方の中に金メダリストがいたんですね。
戦争はこういった多くの優秀な方や著名な方を多く失くしました。
本当に悲しむべきことであります。

戦争など何のメリットも生まれないのだから、世の中から全ての争いが無くなり平和な世界になって欲しいものですね。



本日は、そんな意外な事実とバロン西とウラヌスの絆を取り上げて、もう一度みなさんに平和について考えてもらおうというお話でした。



今日も今日とて眠く、後半のまとめが不明確になってしまい何を伝えたいんだかわからないと思いますがお許しください。

もう寝なきゃ。


おやすミルメーク!
(ミルメークの粉をそのまま牛乳瓶に入れると牛乳が溢れちゃう)


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どうも、こんばんわんだふる!
最近はすぐ眠くなってしまい、老化をひしひしと感じております。
本日も頑張って更新です。

さて、本日は少し夜も遅く眠いこともあり簡単にミニ歴史を一つ。

何を記事にしようかと迷いましたが、今回は「憲兵」についてにしましょう。


みなさんは「憲兵」と聞いてピンときますでしょうか?

兵隊?軍人?結局何をしてる人なの?

このような人が多いはず・・・?ですよね。


「憲兵」が何いったい何なのかというとですね、以下引用をしますのでご参照ください。



けん‐ぺい【憲兵】 の意味
出典:デジタル大辞泉
陸軍で、軍事警察をつかさどる兵。また、その兵科。日本では明治14年(1881)に創設され、陸軍大臣の管轄に属した。のち、しだいに権限を拡大し、一般民衆の思想取り締まりを主要任務とするようになった。第二次大戦後に解体。
(goo辞書より引用https://dictionary.goo.ne.jp/jn/70784/meaning/m0u/)



つまりは軍隊の中の警察組織なんですね。
軍部を取り締まる役割が憲兵にはありました。

ここで注目して欲しいのは「憲兵」というのは“兵科”の一つということなんです。
兵科というのは
・歩兵
・騎兵
・砲兵
・工兵
・輜重兵
・憲兵
・航空兵
という区分分けがされており、技術部・経理部・衛生部・軍医部・軍学部・法務部という専門的な各部の兵隊ではなく、あくまでもその他の一般的な軍人の中に上記の兵科に区分けがされており憲兵が存在します。


従って、経理部や軍医部の兵隊が憲兵になるということはまずありません。(もしかしたらあるかもしれません)


一般的な軍人は軍学校時に希望の兵科を選択して各兵科へと進みます。
(因みに徴兵の場合は選ぶ余地はないらしい)
しかし、士官学校などの兵科希望には「憲兵」の選択肢は無く若くして憲兵になることはない規則らしいです。


では、どうやって憲兵になるのでしょうか?
それは一般的な会社のように転属みたいなものがあり、転科ができたようです。
転科の際は陸軍憲兵学校に数ヶ月通い、憲兵としての訓練を積みます。
そうして晴れて憲兵へとなることができます。


しかし、憲兵という兵科は全くもってエリートコースではないんですね。
武功をあげる機会もないですから昇進の芽はほとんど皆無ですし、他の歩兵などと比べると出世は見込めません。
なので、憲兵というのはある意味エリートコースから外れた兵隊がなるものだったようです。




憲兵の特徴としては、職務上の性質から悪さを働いた軍人を取り締まりをしなくてはいけませんので、憲兵は自分の階級の二つ上の階級まで逮捕する権限がありました。
例えば憲兵中尉であれば少佐を、憲兵少将なら大将を、というように。
ですので、その権限を振りかざして高圧的な態度の憲兵も多く一般の軍人にとっては嫌な存在であったようです。

二つ上の階級を取り締まれる権限があるということで、実は憲兵の階級は“中将”までしかないんです。憲兵の最高階級として憲兵中将が最高峰ということになります。
そういったことも、エリートコースではない所以なのかもしれません。




また憲兵は司法警察権も掌握でき、一般の警察と同様に一般国民に対する思想弾圧や反戦思想の取り締まりをするように次第になっていきました。
実は軍人だけではなく、そういった一般人に対しても取り締まる権限を有していたんですね。



そして、上記と関連して憲兵と言えば「甘粕事件」のような歴史上有名な事件をお話しとくべきでしょう。

1923年に起きた関東大震災の直後に東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉が社会主義思想家であった大杉栄と伊藤野枝らを殺害する事件が起こります。

これもやはり憲兵の一般国民に対する思想への取り締まり権限があったことがこの事件へと繋がってしまったという例の一つです。


軍人が一般人を殺害するまで発展してしまうのは何が何でも酷すぎるとは思います。しかし、当時の憲兵としては戦争の為に正常な判断ができずにと、いうこともあったのでしょう。



しかし、当時の憲兵の役割として軍隊の風紀や規律を乱さないこと、そして反戦思想を取り締まることこそが大事な職務であったことこら憲兵がいなければ大きな乱れが生じたことでしょう。



さて、本日は少しだけ「憲兵」についてお話しましたがいかがでしょうか?
少しは憲兵について知ることがてきましたか?


甘粕事件について折角触れたので甘粕正彦についてもっと熱く語りたかったのですがそれはまた今度にします。
甘粕正彦もこの後逮捕、釈放されてからも軍人として様々なことに関与し数奇な人生を送ります。きになる方は甘粕について調べてみるのもいいかもしれません。



それでは眠すぎるので寝ます。

おやすミルタンク!
(ポケモン金銀のジムリーダー戦でミルタンクのころがるに苦戦した苦い思い出がある方はおおいでしょう。眠すぎてわけわからんことしか言っていないのを御容赦下さい。)

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どうもみなさん。
本日はミニ歴史の第二弾です。
面白い?歴史をパパッと紹介です。

タイトルは

「作戦の神様?悪魔の参謀?」

です。


これはある人物の異名なのですが、お分かりでしょうか?
正直なところ、昭和期の戦争について詳しくない方はわからないと思います。

この正反対の異名をつけられたのが

「辻政信」 という人物でした。

辻政信について簡単に説明しますと、旧大日本帝国陸軍の軍人であり、後に政治家となった方です。
主に太平洋戦争期で活躍?されました。

1902年に石川県で生まれて、名古屋陸軍地方幼年学校⇨陸軍士官学校⇨陸軍大学校 という超が付くほどのエリート街道を歩みます。
幼年学校、士官学校では首席卒業。陸大では3位の席次で卒業という誰もが羨むエリートの中のエリート。
そんな辻政信は、勿論出世コースにのり参謀本部で陸軍の中央で指揮系統の職務に従事します。その後、関東軍への転出やマレー作戦、ガダルカナル、ビルマ戦線へと任務に就き、第18方面軍の高級参謀としてタイ・バンコクで終戦を迎えました。


終戦を迎えるまで、参謀として数々の作戦を立案しある者は「作戦の神様」と呼びまたある者は「悪魔の参謀」と呼びました。

というのも、確かに辻政信の作戦が素晴らしい、と陸軍の内部では評判だったらしく自他共に認めるエリート参謀だったらしい。

しかし、失敗も多く「無能」という評価も凄まじく多い。特にノモンハン事件などは日本軍が壊滅的な被害に遭い、敗北を喫した要因である辻の作戦や行動などは無能と言わざるを得ないでしょう。


ここでは多くを語らないですが、この辻政信という人物は本当に毀誉褒貶がすごい人で有能とも無能とも今でも論争が繰り返されています。




で、今回私が辻政信について語りたかったのは彼の参謀としての能力ではなく彼の戦後についてなんです。



まず、彼は終戦後に戦犯として捉えられることを回避しようと終戦地のバンコクで日本人僧侶になりすましタイ国内に潜伏します。情報を得たイギリス軍関係者が捜索しますが、その捜査網を潜り抜けヴィエンチャンからハノイ経由で重慶へと逃亡しました。
中国では国民党に匿われますが、1948年に上海経由で日本に帰国を果たします。

1948年の日本はまだ戦犯で起訴を行なっており辻政信は国内でも姿を隠し全国各地を転々とします。1950年に戦犯指定が解除されたのを知り再び世に姿を現しました。

戦後から約5年間もの間、戦犯として捉えられることなく国内外を逃げ回っていたというからなんとも凄まじい。
そして、戦犯指定を解除された途端また世の中に姿を現わすという面の皮の厚さ。
うーん、なんというか色々と強い人間何だろうと思います。


しかも、これだけではなくなんと1952年には石川県から衆議院議員に当選し政治家となっています。仮にも戦犯として捜索されていたのにも、かかわらず政治家になったというから驚きです。


そして、辻政信はこの経歴だけでも興味深いのにこれだけではありません。

1961年に東南アジアに公務として視察に出かけたっきり日本に戻ってくることはありませんでした。
そうなんです。謎の失踪を遂げるのです。

この失踪については色々と憶測がありますが、結局何年たっても帰国することはなく1968年に裁判所からの死亡宣告がされました。




うーん、この凄い人生。

正直もっと詳しく書きたいですが今回はこういう面白い人もいるんだ、ということを知っていただきたかったのでこれで終了です。


結論として、辻政信は本当に漫画とか小説のようなヤバい人生を送ったということ。

みなさんも是非今回を機に辻政信について調べてみてください。

因みに私としては

遂行三千里

この本を読むことをお勧めします。
彼の終戦からの自伝です。


是非読んでみてください!

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どうも、こんばんは。
いつも凝りに凝ったブログを書こうとして
時間がないときや眠すぎるときの処置として思いついたのが、この「ミニ歴史!」のコーナーです。

短い文にサクッと興味深い歴史的なことを紹介しちゃうよ!

それでは今回のミニ歴史はこちら。


「むかしより 主(しゅう)をうつみの
野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」

※羽柴ちくぜん=羽柴秀吉 秀吉は筑前守を受領名としていたことから



これは織田信長の三男である織田信孝の辞世の句です。
サクッと織田信孝について説明します。
1582年に信長が本能寺の変にて明智光秀に討たれます。と同時に二条御所で嫡男・織田信忠も討たれてしまいます。
そこで後継者争いへと発展し、
羽柴秀吉が信長の孫の織田秀信を
柴田勝家が信長の三男・織田信孝を
それぞれ推したことで対立してしまいます。

それにより賤ヶ岳の戦いが勃発。柴田勝家軍の敗北、勝家・信孝の両氏は自刃します。
因みに信孝は秀吉の意向で尾張国野間の内海大御堂寺にて切腹させられました。


その時に信孝が詠んだ句が上記の詩なのです。

まず前提として、秀吉は仮にも信長の家臣でありますので、御一門の信孝が主君なのです。

そして、この詩はかつて同じ尾張国野間の内海で主君である源義朝を騙し討ちにして平清盛に首を献じた逆臣・長田忠致の故事にかけたものといわれています。
長田忠致はその後、義朝の子である源頼朝に仕えるわけですが、親の仇である忠致が平氏を滅ぼした際に褒美を欲したそうで、それを頼朝が「美濃尾張をくれてやる」と言い斬首に処したそうです。
この「美濃尾張」は「身の終わり」と掛けてのことでした。


この句も秀吉にもいつかこの故事のように主君(信孝)を討った報いが訪れるぞ、ということを詩にしたものです。


なんとも怖い呪いの句を詠んだものです。

詩のなかの「うつみ」は
・内海
(尾張国野間の内海)

・討つ身
をかけております。


ここまで清々しく相手に対しての憎悪などの辞世の句があるとは驚きです。
辞世の句ってもっと晴れやに散る、美しいものだとばかり思っておりました。


まぁ、こんな様な変わった辞世の句もあるんだということを是非頭の片隅にでもインプットしていただけたらと思います。


それでは!

おやすみ!



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