ナベログ!
ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
どうもこんばんワイルドラプター!
もう8月も終盤、まだまだ残暑が続きますが頑張りましょう。
それにしても、本日は焦りました。
朝、6時くらいかな?携帯がめちゃくちゃ煩く鳴りまして北朝鮮からミサイルが発射されたとの警報が。
「Jアラート」というみたいですが、新潟もこのJアラートが発令された地域でしたので本当に驚きと共に恐怖がありました。(実際には眠すぎてふざけるな、という怒りもありましたが)
しかも、それが新潟最後の朝に鳴るなんて・・・
まぁ、これも良い思い出でしょう。
さてさて、本日は歴史探訪ということで最後の最後、新潟市の歴史を少し探訪してきました。
転出証明書を貰うべく新潟市の中央区役所へ。
すぐ近くに新潟市でも結構大きい神社である白山神社があります。
ここは、新潟にきてもう何度も来ている馴染みの神社です。
最後にこれからの自分の健勝と仕事が上手くいくよう祈念してきました。
白山神社の本堂。そこそこ大きい。
白山神社の山門。これも立派。
そして、絵馬に書いてきましたのでどこかに私の絵馬があるので新潟にお越しの際は是非探して見てください(笑)
実は、新潟市中央区役所に行ったのですが少し離れた所に移転していたのでそこから古町という、新潟市で最も盛っている旧市街へ歩いて移動しました。
その途中で、不思議なものが。
例によって画像が横向きで申し訳ありません。
ん!?なんだあれは!?でかいぞ!?
遠くからでも分かる謎の像の大きさ。
もっと近づくと・・・。
やはりデカい!!
実はこの像、弘願寺というお寺の弘法大師像でした。
以外にも、1969年の製作ということで近年にできたものなんですねぇ〜。
実は私、こういった巨大像マニアなので1人で興奮しておりました。
(巨大像マニアの癖に牛久大仏は見たことがない)
というわけで、最後の新潟でしたが初めての発見もあり良い思い出となりました。
本当にありがとう新潟。
これからもよろしく新潟。
さーて、新生活の準備頑張ろう・・・。
それではまた!
PR
どうもお久しぶりです。
お盆休みということでこのブログも暫しお盆休みをいただいております。
そんな中、実家に帰り久々に私のルーツでもある“とある場所”へ行ってきましたので少しご報告です。
私の実家は山梨県の富士吉田市というところにあります。
富士山の麓で夏は涼しくて過ごしやすく改めて良いところだと実感しています。
お話しすると長くなりますが、実は私のルーツは富士吉田市から少し離れたところにあります。
それが、お隣の「富士河口湖町精進」という場所です。
よくネットでは「ヤバい村だ」とか「青木ヶ原樹海の中にある心霊スポット」だとか噂されている珍スポットなのですが実はそこにルーツがあります。
精進 〒401-0336 山梨県南都留郡富士河口湖町
本当に樹海の真ん真ん中に区画された1つの町が形成されています。
かつての湖の増水による災害でここの森林を開拓して町を造ったようです。
写真は1つも撮ってはなくてよく伝わらないかもしれませんが、数十件の家が規則正しく区画、整備されていました。
私自身数年ぶりに訪れましたが、まぁ確かに周りが樹海に囲まれており異質な雰囲気ではありました。
が、非常に落ち着く場所でした。
帰りに富士五湖の1つである精進湖をぐるっと一周して帰ってきました。
精進湖は富士五湖で1番小さい湖でありまして、車で一周してもほんの僅かな時間しか要しません。
みなさんも是非この面白スポットの精進湖周辺を訪れては如何でしょうか?
それではまた!
どうも〜
お疲れです〜
もう8月に入って数日経ってしまったというから驚きです。
新潟では本日から3日間、「新潟まつり」という大規模なお祭りを開催しておりまして街中には大民謡流しの為に浴衣を着た人々で賑わっていました。
その光景を横目に私はスタスタと帰路へ。
インドア引きこもりの私には全く関係のないお話です。
さて、本日は先週行った長野小旅行の際の歴史探訪の続きを書こうと思います。
今回のご紹介はほぼ真田関連です。
松代をこれでもか、と満喫した私ですがいよいよファイナルスポットへ。
松代藩と真田氏の関わりは前回説明の通りですが、その真田氏にまつわる資料や所縁の品を展示してあるのが「真田宝物館」です。
ここには様々な展示物があるのですが、やはり昨年の真田丸フィーバーが関係してか松代藩に移ってからの真田氏のことだけではなく、真田隆幸・真田昌幸・真田信之・真田幸村の三代に亘る紹介や説明がよくわかるようになっていました。
「あ!この肖像画見たことある!」という肖像画の原本がこの宝物館所蔵のものだったり、真田昌幸や真田幸村の書状などが多数展示されており個人的にテンションが上がりました。
写真は訳の部分を撮っています。
後でちゃんと資料の内容を見ようと写真に納めたりしてました。
この真田宝物館も非常に楽しめました。
内装も綺麗で、良いところです。
因みに、松代スタンプラリーなるものを行い、全部コンプリートしました。
コンプリートの賞品は真田シールでした。欲しい人はご連絡下さい 笑
というわけで丁度閉館の5時くらいに周り終わり、松代の旅は終了。
その日は長野に一泊しましたが宿泊したホテルがクソすぎて悲しかったです。
そして翌、7月30日(日)は長野からしなの鉄道で上田駅へ。
上田と言えばまたまた「真田」。一度は行きたい場所でしたので今回行けて良かったです。
まずは、というかここは上田城跡の上田公園にしか観光スポットがほぼないのでとにかく上田城跡へ。
意外と駅から遠くて疲れました。
この写真が上田城本丸東虎口の櫓門です。
写真右側のキッズ達が触っているのが「真田石」というとにかく大きい石です。
当時は石の大きさが権力の大きさを示すものだったらしいです。
この石を真田信之が松代へ移封される際に持っていこうとしたらしいのですが、結局持って行けなくてここにずっと鎮座しているようです。
少し遠くから写した写真です。
北櫓と南櫓も左右に配置されています。
のや櫓門をくぐるとすぐ目の前に「真田神社」が。
今回の旅は多くの神社やお寺に行って祈願をしてきましたがここでもお祈りしました。
この真田神社本殿の横道に少し入ると真田の井戸と呼ばれる場外へと繋がっていると噂の井戸もありました。
上田城跡は城址であり、櫓門など以外には建造物がありません。もちろん、天守閣もございません。
ですので、本丸跡は今はだだっ広い何もないスペースが広がっているだけです。
ですので、城だからといって期待していくとガッカリするかもしれませんね。
しかし、堀や土塁の遺構などを見ることが出来ますのでぜひ来て見てみて下さい。
その後は、上田市立博物館へ。
こちらの博物館もやはり真田氏の資料なども多く展示されております。
また、江戸時代に入って真田氏が松代へ移封となった後にこの土地を納めた仙石氏や松平氏の展示も見ることができます。
この博物館も非常に楽しめました。
その後、特別企画展「400年の時を経て甦る上田城」というものを上田城公園の入り口付近で行なっていたので入りました。
ここでは大河ドラマで使用したグッズや演者のサインなどがありました。
草刈正雄さんのサインも見れました。
前日と当日に真田氏の博物館へ行ったばかりで真田氏の歴史はお腹いっぱいでしたがまた真田氏の歴史を少し拝見しました。
日曜だっとこともあり、人も多くうるさいキッズどもが多くてなかなか見たい展示も見れないような状態で残念でした。
こんなところで上田城散策は終了し家路に着こうと駅へ向かいます。
すると、上田藩主邸跡(現在は跡地に県立上田高校が建っています)には藩主邸の表門が残っておりましたのでこれも見て来ました。
こんな立派な門がある高校に通えるなんていいですよね。
藩主邸跡の表門を見た後に上田駅へ。
そういえば真田幸村の銅像が駅前にあるはずなんだけどなぁ、と思いキョロキョロ辺りを見回しますがなかなか見つかりません。
しかし、根気よく探すと発見しづらい謎の広場みたいなところに銅像を発見!
(画像が横向きで申し訳ないです)
なんでこんなところに建てたかは不明です。
さて今回の旅はこれにて終了です。
いやー、長野旅楽しかったです。
特に松代が!!!
ぜひ楽しい楽しい松代をして見て下さい。
ではまた!
やっほー☆
ワタナベだよー☆
というわけで本日も先週末に旅したことを歴史探訪としてご紹介いたします。
本日紹介するのは7/28(土).29(日)の模様をお送りします。
旅先は信濃国、そう長野県です。
28日(土)は長野市の「松代」へ行きました。
早朝、金沢を少しブラブラした後直ぐに新幹線で長野駅へ!
長野駅から路線バスでいざ松代へ。
松代は正確には長野市松城町という地名のことで、1966年に元々長野県埴科郡松城町だったのを長野市を含むその他の市町村と合併し今の長野市松城町という地名になりました。
兎に角ここ松代は、江戸時代の「松代藩」だったことに関する観光を推していまして、この地区全体が松代藩時代の街並みなの景観を維持・保存しているため本当に街並みが綺麗でした。
中でも、松代藩といえば昨年大河ドラマでも話題になった「真田丸」の“真田家”所縁の藩です。
松代藩の初代藩主が真田昌幸の長男であり、あの真田信繁(幸村)の兄であった「真田信之」なのです。
以降、松代藩は真田氏が代々藩主となって納めた地域でしたので昨年の大河ブームも相まってこれでもかというほど真田推しです。
「真田丸」を全話観ていた私にとっては非常に喜ばしいことで本当に楽しめました。
また、後述しますが私のこの松代の旅の本来の目的は太平洋戦争末期に計画されていた「松代大本営」の跡を見に行くことでした。
実は江戸時代だけでなく、近代でもこの松代は歴史的にも注目されていた地域だったのです。
さらに、ここ松代は幕末にかの有名な「佐久間象山」出生の地です。
佐久間は松代藩で学び、最終的に幕末に日本を動かす火種を作ったということですね。
そういうこともあり、松代では
・戦国時代
・江戸時代
・幕末
・太平洋戦争
という幅広い歴史を体感することができる日本でも屈指のスーパー歴史地域で、私のような歴史好きには超興奮のスポットでした。
前置きが長くなりすぎましたが少しずつご紹介していきます。
まず、最初に訪れたのは松代藩時代の藩士の旧住宅跡であります「旧横田家住宅」です。
1800年前半に建築された中級武士の住宅です。
当時の武士の生活を、垣間見ることができました。中級武士というと現代でいう県庁職員と言ったところでありましょうか。
質素の中にも良い暮らしをしている、という感じが見受けられました。
敷地も相当広く、庭園と菜園があり自ら野菜などを栽培していたことが分かりました。
そして、続いてはそこから徒歩で五分程の場所にある「山寺常山邸」です。
山寺常山は儒者・鎌原桐山、維新の先覚者・佐久間象山とともに“松代三山”と呼ばれ、寺社奉行、郡奉行を務めた方であり、この山寺常山の邸宅を今でも見ることができました。
元々ここには武家屋敷が建築されていましたが主屋は大正時代までにほとんど失われており、現在は復元された小規模な建築物があります。
庭園は非常に綺麗で池には無数の鯉が優雅に泳いでおりました。
さて、綺麗な情景で目の保養を行なった後は戦中の惨劇を見るために「松代大本営跡」へ向かいました。
松代大本営を簡単に説明しますと、太平洋戦争末期に本土決戦に備えて当時東京にあった中枢の大本営を松代に移すという計画のもと松代の山々の地下や麓に大本営を建設するというものでした。
その大本営を建設した遺構を見ることができます。
まず、「もうひとつの歴史館」という歴史館?へ行きました。
ここでここの歴史館のスタッフの方にこの松代大本営の概略や、建設工事の事などについて一通り説明してもらいました。
私1人の為に説明して下さり、良く概要が分かり大変満足しました。
その後、すぐ近くの象山という山に掘られた大本営の遺構である地下壕にいきました。
ヘルメットをかぶりいざ地下壕内部へ。
夏だというのに中は物凄く寒かったです・・・。
気分はシベリア。
現在見学出来るのは入り口から500mまでのところまでで、内部は掘削の跡が生々しく残っていました。
地下壕はこの象山という山以外にも他2つの山でも掘られていたのですが僅か9ヶ月で全長10kmを掘り進めたというのだから驚きです。
労働者の苦労が暗闇から伝わってきました。
主に朝鮮からの労働者ということで、殉職された方も多いと聞きましたので亡くなった労働者へ祈りを捧げつつ地下壕を一通り回ってきました。
いやー、すごい場所だなぁと。
ここは本当にオススメです。
悲惨な歴史の遺構を見学した後は「象山記念館」という佐久間象山の記念館へ行きました。特に写真はありませんが佐久間象山所縁の品などが多数展示されてました。
物凄く頭の良い方だったのが分かりましたね。
そして、私の旅はまだまた終わりません。
その後結構歩いて、「旧前島家住宅」へ。
松代藩士の前島氏の住宅で、1759年に建築された武家屋敷であり松代で最古の武家屋敷だそうです。
この旧住宅も凄く落ち着くスポットで、まるで禅寺へ来たような心の安らぎを得ることが出来ました。
旧前島家住宅は他の松代の観光スポットから離れていたので歩き疲れましたが、ようやく松代の中心地へと歩みを進めます。
続いてまたしても旧住宅シリーズ。
「旧樋口家住宅」です。
松代藩士の樋口氏は前述した横田氏や前島氏よりも家格は上で、藩の要職を歴任した家系でした。
つまりは上級武士であり現在でいうところのキャリア官僚のようなものでしょうか。
やはり、中級武士の武家屋敷と比べると違いは顕著でした。
全てが少しずつグレードアップしているのが良く分かります。
これは皆さんも実際に行って見てみないと分からないと思いますので是非実際に行って比べてみてください。
その後はすぐ隣の「旧白井家表門」を見ました。
立派な門でした。以上。
そして、遂にメイン観光スポットへと駒を進めます。
まずは「文武学校」です。
これは松代藩八代藩主・真田幸貫が水戸の弘道館にならって藩学校の設置を計画し、九代の真田幸教の時に設置された藩校です。
ここでは、教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などが配置されており見ることができました。
ここには休日ということもあり、沢山の観光客で賑わっておりました。
小学生くらいの子供たちが様々な体験型の学習?的なことをボランティアスタッフの方々と行なっており、当時の藩校の教育を現代の子供たちが体験するという非常に良い光景を見ることができました。
こういう当時の学びを体験出来るのはいいですよね。
そして、続いて「真田邸」へ。
ここ真田邸は九代藩主・幸教が、義母・貞松院の住まいとして1864年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていたところでした。
もう本当にここは素晴らしいところで、この御殿は兎に角細部まで綺麗な装飾などがあって「ここに住んでみたい!」という感情を出さずにはいられなかったですね。
庭園は物凄く綺麗で、やはり他の藩士の旧住宅の庭園とは比べものにならないほど立派なもので、「これが藩主の御殿か!」と心底実感するものでした。
いやー、こんなに素晴らしい邸宅なら一生松代に住んでもいいと思いましたね。
松代の旅も終盤戦です。
続いては「松代城跡」に行きました。
松代城は武田信玄と上杉謙信が川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれています。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。
江戸時代にはここ松代城を中心に松代藩の城下町が発展して行きました。
2004年ごろにこの門を始め復元され、今では天守などの建造物は無いものの立派に整備され復元されております。
さて、松代の旅はまだ終わらないのですが少し長くなってしまったので一旦区切ります。
この後行った「真田宝物館」と29日(日)に行った上田は共に真田氏の歴史についてなので関連するところがありますので後日改めて記事を書きます。
というわけで松代の観光について紹介させていただきました。
本当にいいところです!
また行きたい!!
あの素晴らしい街並みや、整備された水路などは必見です!
ぜひ行った方がいいです。
それでは、また!
どうも、こんばんわ。
今週は本当にアクティブにいろんなところを旅して回りました。
久しぶりに楽しかったです。
そんな本日は「長野・金沢編」ということで書き記しておこうと思います。
まずは、「牛に引かれて善光寺詣り」で御馴染みの善光寺。
10年前に行った時はものすごい建物も大きくて広大な敷地だったような気がしたのですが、確かに大きなお寺でしたがそこまでの印象は無かったですね。
それでも矢張り全国に名を馳せている善光寺。物凄く趣のあるスポットでした。
※以下にアップロードする画像の向きが横になっていたり見辛いかもしれませんが御容赦下さい・・・。
まずは参道です。
非常に賑やかで善光寺土産や信州名物が売っている売店が立ち並んでいました。
そして善光寺の山門。
壮大で優美な山門に圧倒されました。
山門を潜るとそこにはまた一際大きな本堂が待ち構えていました。
本堂の内部はそれはそれは広くて感動しました。
そして何と言っても本堂の奥での「お戒壇巡り」は良い体験でした。
階段を降りて戒壇を進みます。
そこは一寸の光も入ってこない、まさに「闇」。
右の壁を伝って恐る恐る前へ。
これ複数人で行ったら結構盛り上がるんだろうなぁと思いますが1人で進むと本当に怖いです。
お化け屋敷を進んでいるような恐怖の感覚に襲われます。ビビリな私は本当に少しずつ少しずつ前へ前へと歩みを進めました。
暗闇の終盤にある錠前に触ることができれば極楽浄土に行けるようです。
暗すぎて果たして錠前なのか分かりませんが恐らく触れたのできっと極楽浄土へ私も行けるのでしょう。やった!
是非また今度行った時に巡ってみたいです。
そして本堂でご参拝したあとに少し離れた所にある資料館へ。
資料館兼忠霊塔となっています。
資料館では善光寺所有の貴重な展示品が見れました。
スーパー楽しかったです。
そんな感じで信州善光寺詣りは終了。
矢張り日本屈指の名刹は一味も二味も違いました。
そして、その後訳あって金沢へ移動。
同期と久しぶりの再会をして楽しかったです。
金沢に一泊して、朝少しだけ金沢を歩きました。
金沢はもう数回来てますし、観光スポットがあんまり無いんですよね。
そういうこともあってとりあえず行ったことが無かった「尾山神社」へ行きました。
ここは加賀藩の藩祖である前田利家を主祭神として祀っている神社で、1873年創建と意外と新しい神社です。
ここは何と言っても「神門」が素晴らしいのです。
画像が横を向いていたり暗かったりで申し訳ないのですが、上部にはなんとステンドグラスがはめ込まれています。
こんな神社初めて見ました。
あるんですね、こんなところが。
兎に角美しかったです。
前田利家公の像であったり兜の復元だったりと飽きのこない素晴らしい神社でした。
ここは訪れる価値大有りですね。
そんなこんなで朝早くに金沢を発ってもう一度信州へと旅路を急ぐのでした。
グッバイ金沢!
次はいつこれるだろうか・・・。
というわけで本日はとりあえず終了。
明日以降に第2弾の信州松代・上田編をお送りする予定です。
それではまた!
どうもみなさんこんばんわ!
本日は久しぶりに幻の「歴史探訪」の復活です!
超インドア派の私にとってなかなかアクティブに外出したりすることがないのでレアなコーナー!!
というわけで本日は出張の合間に少しだけ観光してきました。
もちろん、ちゃんと出張の目的を果たして、上司の承認を得ていますので悪しからず!
本日は新潟を午前中に出て、昼過ぎに第一の目的地長野駅に。
まぁ特に長野では観光はしてませんが、約10年ぶりに長野市に訪れました。
小学生のころミニバスの遠征で1度長野市に訪れたことはありましたがそれ以来ご無沙汰でした。
でも正直小学生の記憶なのでほぼほぼ覚えてませんので初めて来たと言ってもいいくらいですかね。
長野で目的を果たして次は松本駅へ。
松本市は本当に初めてで、行きたかったところでもあったので今回行けて良かったです。
長野駅から特急列車で松本駅に着き、約1時間の時間の合間でいざ観光。
目指すは松本城!
松本駅から歩いて10分ちょっとで松本城へ到着です。
美しい・・・。
さすが国宝・松本城、、、!
圧倒的な存在感に脱帽です。
黒門という門を潜って、
いざ天守へ!
少し暗めの写真で分かりにくいかもしれませんが正面もなかなかの迫力。
もっと近くに行くと・・・
いやー、近くに行けば今度はカッコよく見えました。
石垣もキレイに積まれており、石落としや狭間も規則正しく配置されて流石名城だと心底思いました。
平日にもかかわらずなかなかの観光客。
天守内部は上へ上へと登る階段が急で狭いこともあり大混雑。
なかなか苦労して最上部へ。
松本市内が一望できました。
ただ、曇ってたこともありアルプスの山々が見れなかったことが残念です。
1時間しか猶予がなかったので足早に松本城を出て、同敷地内にある松本市博物館へ。
松本市の歴史が少しわかったようなきがしました。
中でも松本市には「道祖神」が多く設置されているとのことでした。
大学では民俗学を学んでいたこともありなかなか興味深いお話でした。
と、足早に博物館も見て回り丁度1時間くらいで松本城見物は終了し、本来の目的に戻ったのでした。
本来なら松本で宿泊したかったのですが、学会か何かのイベントがありまた、長野へ戻って長野で宿泊。
なかなか疲れた?日でしたが北陸での良い思い出がまた一つ増えました。
さて、明日もアクティブに出張だ!
それではまた!
どうもこんにちは。
昨日に引き続き、テレビがないとこんなに暇なのか!という休日を過ごし、これはどこかに出かけるのが吉。と判断し本日もアクティブに出かけてきました。
そんな本日は井波編ということで、南砺市は井波の観光スポットでの旅の一コマをお伝えします。
本日は、昨日と打って変わって曇天の空模様。
あまり気分は乗りませんでしたが、折角なので出かけることにしました。
目的地は彫刻で有名な「井波」。
実は私、そういった彫刻とかに興味があるというか、凄く惹かれるものがあったので井波には行ってみたいと以前から思っておりました。
そんなこんなで、「こんな天気だけど、まぁ行きたかったところだし行ってみるか」という面持ちで出発。
借りてるアパートから車で20分もしないくらいで目的地である井波の町へ。
公共駐車場に車を止めていざ井波の街並みを散策開始!
井波のメインストリート?八日町通り
ここが井波の古き良き街並みが残る「八日町通り」。
何と言っても多くの彫刻関係のお店が軒を連ねていました!!
木工細工のお土産屋さんが多かったイメージです。
午前中の割と早い時間だったこともあって観光客はほぼいませんでしたので、静けさが通り一面に張り詰めていました。
その八日町通りを奥まで進むと、突き当たりにあるのが、本日のメインスポット、
「井波別院 瑞泉寺」
場所:富山県南砺市井波3050
井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれました。
外国から送られてきた難解な国書を、綽如上人が解読し、天皇は大変喜び、一寺寄進を
申し出られたと伝えられております。
綽如上人は、多数念仏信者の浄財による建立を希望され、天皇は勧進状を認(したた)
める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可されました。
明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、
広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立され
ました。この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、又越中の一向一揆の
重要拠点ともなった寺院となっていきます。
15世紀末には、井波城と称しました。福光城主石黒氏を破るとともに、井波の町は寺内町として
発展します。16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいます。その後城端北野に
移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。
現在の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本でも
有数の建物です。井波大工の棟梁松井角平恒広を中心に多くの大工、彫刻師が完成させました。
太子堂は、大正7年(1918年)、井波建築、井波彫刻、井波塗師の優れた技を集めて
再建されました。棟梁は松井角平恒信で、大工34人が建築にあたり、7年がかりの大工事でした。
大門(山門)は、天明5年(1785年)、京都の大工によって建て始められましたが、京都本願寺の
再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成したものです。
(井波別院瑞泉寺公式HPから引用http://www.geocities.jp/inamibetuinzuisenji/)
と、まぁこういった由緒のある寺院です。
まず、入って正面にはなんとも勇ましい大門(山門)!
井波別院 瑞泉寺 大門
この大門には数々の細やかな彫刻が至る所に彫ってあり、一見の価値ありです。
その細かさに、当時の職人の仕事ぶりに脱帽でございます。
山門をくぐると受付へ行きます。
拝観料は300円と、まぁ安いくらいのお値段。
受付を済まして正面を見ると、そこには壮大な本堂がドーンと、構えておりました。
井波別院 瑞泉寺 本堂
早速、本堂の中へ入ると中もやはり御立派。
煌びやかな本尊がお出迎えしてくれます。
続いては太子堂と呼ばれる建物へ。本堂から渡り廊下を歩いて行けます。
この太子堂は何と言っても「井波が誇る彫刻のオンパレード」!
撮影禁止の為、写真はないのだが天井近くに15もの様々な彫刻が、そして屋根の付近にも至る所に細かい彫刻がなされていてこれぞまさに井波彫刻の粋を集めた傑作。
日本ではここでしか見れない美しい彫刻が見れました。
その隣の宝物館は当寺社に所縁のある品々が展示されていました。
いや〜、こんな田舎にも隠れ観光スポットがあるんだなぁ、と思い瑞泉寺を後にしました。
井波別院 瑞泉寺 太子堂
井波別院 瑞泉寺 太子堂の彫刻の一部
続いては、八日町通り周辺の細々とした観光スポットをダイジェストで。
①池波正太郎ふれあい館
池波正太郎がこの地に縁があり、書簡などが展示されてました。
②井波美術館
井波が誇る芸術家の作品が多数展示されてました。
③翁塚・黒髪庵
松尾芭蕉の門下が芭蕉の墓から小石を三つと遺髪をここに納めたとか。
小さく、静かな建物です。
ただ、小虫がめちゃくちゃいて不快でした。
上記三つの場所は全て八日町通りに点在してました。
色々拝見しまして、八日町通りを去ることにしました。
続いての目的地は、井波の道の駅。
ここには何と言っても
「井波彫刻総合会館」
がありますので、心を踊らせていざ出立!!
道の駅の敷地内だということもあり、そこそこ観光客で賑わいを見せていました。
ただ、こんな渋い観光地は高齢者しかいませんので本当に終始浮いていました。
で、お待ちかねの井波彫刻総合会館へ!
井波彫刻総合会館 入口
入館料は500円。入館手続きをすまして中に入ります。
館内は撮影禁止だったので、残念ながらお見せできませんがあんな彫刻やこんな彫刻まで、それはそれは多数の芸術作品が展示されておりました!!
ここには井波彫刻協同組合のみなさんの作品により構成されていて、小さな彫刻から特大彫刻まで組合のみなさんの本気(マジ)がそこにはありました 笑・・・。
全てに値段が付いていることにも驚きました。
高いものでは数百万円という、驚きプライス。
これぞ、最高峰の彫刻家の技を五感を通して体感しました。
木の芸術っていいですね〜。心が和みますし、その彫刻の匂い。
兎に角いいですね〜。
井波彫刻の技術力の高さを見ることができました。
と、こうして井波のたくさんの観光スポットを巡ったところで本日の旅は終了。
こういった、隠れマイナー観光地もいいものですね。
こういった芸術は歳を追うごとに見方や感じ方が変わってくると思いますので、是非何年後かに訪れたいです。
さて、多くの芸術に触れてインスピレーションを得れたことで仕事にも何か繋げるぞ〜!
といったとこで、今回の歴史探訪は閉幕します。
ご閲覧ありがとうございました。
どうもみなさん。こんにちは。
今回は定期的なブログの更新とは別に、
番外編
としてお送りします。
今後もたま〜に番外編をお送りしますのでお楽しみに。
「歴史探訪」
と題しまして、私が興味のある歴史的なスポットに訪れた記録として記事を書いていきたいと存じます。
言ってしまえば、日記ですね。
それでは記念すべき第1回目は何処へ歴史探訪したのか・・・
今回は二箇所を巡りました。
まず一箇所目。
「萬福寺」
場所:富山県砺波市太田1661
砺波市の苗加というところに小ぢんまりとしたお寺。
結構ネットではオススメの寺社仏閣ランキングに名を連ねていたので期待していたのだが、想像とは違い本当に質素な寺院でありました。
ただ、この萬福寺の一番の売りは何と言っても「山門」にあり!
もと城端町善徳寺に建立されていましたが、寛政12年(1800)、善徳寺に現在の桜門が造営されることになったので、翌享和元年、当寺に譲られました。 善徳寺は戦国時代の永禄2年(1559)、城ヶ端城主荒木大膳が城地を提供して招請したと伝えられ、この門は当時の城門です。
(砺波正倉より引用http://1073shoso.jp/www/index.jsp)
元々は違うお寺(城端別院善徳寺)にあったものをこの地に移設したんですね。
確かに中々の雰囲気はありました。
因みに富山県の有形文化財です。
県内では見られることのできない、特殊な薬医門と呼ばれる特徴があるらしい。
小さいけれども、今も残る戦国時代の貴重な山門が見れました。
萬福寺山門
萬福寺山門(横から撮影)
萬福寺山門(解説)
続いて脚を運んだのが、
「城端別院善徳寺」
場所:富山県南砺市城端405
南砺市の城端という場所にその寺院は建っている。
あれ?「城端別院善徳寺」って何処かでこの名前見ませんでした?
少しページの上をもう一度見てください。
そう、上記で紹介した「萬福寺山門」が元々あったお寺にも行ってきました!
やはり歴史は点ではなく、線で辿った方が面白いですから。
と、そんなカッコいい事言ってますが
①奇跡的に最初に行った萬福寺がまず行きつけのスーパー銭湯のすぐ近くだったこと
②城端別院善徳寺が実は出張先で借りてるアパートのすぐ裏だったこと
の二つの奇跡が重なってこうして歴史を線で辿ることができました。奇跡ってあるんですね。
城端別院は真宗大谷派の寺院で寺号を善德寺、山号を廓龍山と号す。蓮如上人が吉崎に於いて精力的な布教をされていた頃、本願寺第五代綽如上人の孫である蓮真は蓮如上人の願いにより現在の石川県と富山県の県境にある砂子坂に文明年間(1470年頃)に一寺を建立し、蓮如上人を開基、自身を第2世とした。その後、布教活動とともに寺所を移転し、第5世祐勝の時代に現在の城端町に移転してきた。
第6世空勝は本願寺と織田信長との石山合戦に参戦し、あくまで本願寺を死守しようとする教如上人(東派1代目)に協力し尽力を尽くした。この事が後の東西分派で善德寺が東派になる事や、江戸時代に於いて越中東方の最有力寺院としての地位や役割を果たす事になった。
また江戸時代には加賀藩前田家の庇護のもと、越中の触頭役(頭寺)を勤め隆盛し、時には加賀藩主の子を住職として迎えることもあった。
以来、聞法の場として地域の方々に慕われ支えられて今日に至っている。
(善徳寺公式HPより引用http://www.zentokuji.jp/)
そんな城端別院善徳寺ですが、本来ならばそこそこ観光スポット的な寺院なのですが、現在大規模修復工事中でして、ほとんどの建造物を見ることができませんでした・・・。
しかも宝物館も工事の影響で何故か展示を中止していたという謎の事案が発生。
意気消沈で足早に帰路につきました。
しかし、山門も非常に立派でさすが彫刻に名を馳せている越中の造りだ!と感心したものであります。非常に大きかったし。
今度は工事が終わってからいきたい!と思いました。
城端別院善徳寺山門
城端別院善徳寺本堂
城端別院善徳寺宝物館説明
今回は富山県の歴史深い二つのお寺に行けました。
実はこの二つは非常に密接な関係があったんですね。
またにはこういう知られていない寺社仏閣に行くのも乙ですね。
さて、今回の番外編はこれにて終了。
次回はどこに出没するか乞うご期待!ということで。
アディオス☆
(笑)
プロフィール
HN:
ワタナベ
性別:
男性
最新記事
(08/29)
(08/26)
(08/21)
(08/16)
(08/06)
P R
カレンダー
忍者カウンター
| HOME |