ナベログ!
ワタナベのワタナベによるワタナベのためのブログ
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どうもこんばんワイルドラプター!
もう8月も終盤、まだまだ残暑が続きますが頑張りましょう。
それにしても、本日は焦りました。
朝、6時くらいかな?携帯がめちゃくちゃ煩く鳴りまして北朝鮮からミサイルが発射されたとの警報が。
「Jアラート」というみたいですが、新潟もこのJアラートが発令された地域でしたので本当に驚きと共に恐怖がありました。(実際には眠すぎてふざけるな、という怒りもありましたが)
しかも、それが新潟最後の朝に鳴るなんて・・・
まぁ、これも良い思い出でしょう。
さてさて、本日は歴史探訪ということで最後の最後、新潟市の歴史を少し探訪してきました。
転出証明書を貰うべく新潟市の中央区役所へ。
すぐ近くに新潟市でも結構大きい神社である白山神社があります。
ここは、新潟にきてもう何度も来ている馴染みの神社です。
最後にこれからの自分の健勝と仕事が上手くいくよう祈念してきました。
白山神社の本堂。そこそこ大きい。
白山神社の山門。これも立派。
そして、絵馬に書いてきましたのでどこかに私の絵馬があるので新潟にお越しの際は是非探して見てください(笑)
実は、新潟市中央区役所に行ったのですが少し離れた所に移転していたのでそこから古町という、新潟市で最も盛っている旧市街へ歩いて移動しました。
その途中で、不思議なものが。
例によって画像が横向きで申し訳ありません。
ん!?なんだあれは!?でかいぞ!?
遠くからでも分かる謎の像の大きさ。
もっと近づくと・・・。
やはりデカい!!
実はこの像、弘願寺というお寺の弘法大師像でした。
以外にも、1969年の製作ということで近年にできたものなんですねぇ〜。
実は私、こういった巨大像マニアなので1人で興奮しておりました。
(巨大像マニアの癖に牛久大仏は見たことがない)
というわけで、最後の新潟でしたが初めての発見もあり良い思い出となりました。
本当にありがとう新潟。
これからもよろしく新潟。
さーて、新生活の準備頑張ろう・・・。
それではまた!
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どうも。
最近は転勤にあたって引越しの準備やらなんやらで忙しくてなかなか更新ができずじまいでした。
というわけで忙しい中でも偶には書かなければ、と思い更新です。
本日は、サクッと最近仕入れた情報を1つ。
先日、会社の方々と話題になったことがありました。
「堀部安兵衛って新発田出身なのに、どうして赤穂浪士に名を連ねていたの?」
ということ。
新潟にいるので新発田出身の堀部安兵衛の話が話題に上がったのです。
堀部安兵衛と言えば「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士1人であります。
先輩方に、説明を求められたので頭の片隅にあった薄〜い知識で
「あー、それは定かではないのですが確か元々堀部安兵衛は新発田出身でしたけど赤穂藩の堀部家の養子になったからですよー」
と答えました。
キッとそうだろう!と面白いましたが、少し不安になって後々調べました。
寛文10年(1670年)、越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。(中略)
母は、武庸を出産した直後の同年5月に死去したため、しばらくは母方の祖母のところへ送られて、祖母を母代わりにして3歳まで育てられたが、祖母が死去すると再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる。しかし、武庸が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。
(中略)
浪人後、ほどなくして父が死去。孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父・盛政に引き取られたが、盛政もその後2年ほどで死去したため、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。元禄元年(1688年)、19歳になった武庸は、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王(他の3人は奥田孫太夫、菱沼式兵衛、塩入主膳)と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現・新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。
そのようななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。武庸と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)。
この決闘での武庸の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望んだ。はじめ武庸は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、金丸の思い入れは強く、ついには主君の浅野長矩に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。長矩も噂の剣客・中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
これを聞いてさすがの武庸もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、金丸の娘・ほりと結婚して、金丸の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に金丸が隠居し、武庸が家督相続。このとき、武庸は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。
(Wikipediaより引用)
うーん、まぁほぼほぼ正解でしょう。
婿養子として養子縁組したのですね。
これは少し記憶が欠損してましたね。
新発田藩から赤穂藩へと、物凄く距離がありますがそういった経緯があったのです。
やっぱり歴史は面白いなぁ、
さーて、また明日も引越しの準備なのでそろそろ寝ますか。
それではお休みなさい。
どうも、こんにちわんだふる!
お盆休みはゆっくり休みますリフレッシュしました。
というわけで、ナベログも暫し小休止しておりました。
本日は少々時間が空いてしまったのでブログ執筆の身体を慣らそう、ということで少しだけ。
メモ的な感じで書こうかなと思います。
8月15日にNHKで興味深い放送がありました。
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」
という番組です。
太平洋戦争で非常に有名な負け戦、インパール作戦についての特集でした。
「牟田口廉也」という人物の名前を聞いたことのある人が多いのではないかと思いますが、その牟田口中将がやらかした日本陸軍最悪の作戦でした。
それはもう、悲惨という言葉しか当てはまらない地獄。
こんなことがあったのか、と驚愕せざるを得ない戦いでした。
非常に簡潔にまとめられている番組で非常に興味深く視聴しました。
8月26日にもまた放送があるということなので、また見ようかなと。見てない方も是非。
まぁ、番宣ということで多くは語りません。
そんな中、このインパール作戦についてのネットで下記の書き込みがあり笑ってしまいました。
480: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/08/17(木) 11:49:45.67 ID:KAOk+/Vr0
満州で中央無視して独断で戦線拡大しても
それで出世できるならみんなやるよな
そして自分が中央戻った時に
独断専行止められなくて連鎖する
526: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/08/17(木) 11:57:04.96 ID:0BYP3Uwsd
>>480
石原「満州事変の時間だあああああああああ」
南、金谷「ああ…もう無茶苦茶だよ!」
↓
武藤「北支事変が起きたし、戦線拡大させて中華民国を属国にさせたろ!」
石原作戦部長「ああ…もう無茶苦茶だよ…」
↓
田中作戦部長「日米開戦の時間だあああああああ」
武藤軍務局長「ああ…もう無茶苦茶だよ…」
この流れは滅茶苦茶面白いですね。
本当に太平洋戦争期は面白いことばかり。
勉強しててあきませんね。
みなさんも是非面白いので、この時代を勉強なさるのは如何でしょうか?
それでは本日はこれにて。
それではまた!
どうもお久しぶりです。
お盆休みということでこのブログも暫しお盆休みをいただいております。
そんな中、実家に帰り久々に私のルーツでもある“とある場所”へ行ってきましたので少しご報告です。
私の実家は山梨県の富士吉田市というところにあります。
富士山の麓で夏は涼しくて過ごしやすく改めて良いところだと実感しています。
お話しすると長くなりますが、実は私のルーツは富士吉田市から少し離れたところにあります。
それが、お隣の「富士河口湖町精進」という場所です。
よくネットでは「ヤバい村だ」とか「青木ヶ原樹海の中にある心霊スポット」だとか噂されている珍スポットなのですが実はそこにルーツがあります。
精進 〒401-0336 山梨県南都留郡富士河口湖町
本当に樹海の真ん真ん中に区画された1つの町が形成されています。
かつての湖の増水による災害でここの森林を開拓して町を造ったようです。
写真は1つも撮ってはなくてよく伝わらないかもしれませんが、数十件の家が規則正しく区画、整備されていました。
私自身数年ぶりに訪れましたが、まぁ確かに周りが樹海に囲まれており異質な雰囲気ではありました。
が、非常に落ち着く場所でした。
帰りに富士五湖の1つである精進湖をぐるっと一周して帰ってきました。
精進湖は富士五湖で1番小さい湖でありまして、車で一周してもほんの僅かな時間しか要しません。
みなさんも是非この面白スポットの精進湖周辺を訪れては如何でしょうか?
それではまた!
どうもこんにちは。
いや〜、今日も暑いっす。
熱帯ですねぇ、
新潟でこんなに暑かったら都市部はどうなっているのかと、もうサハラ砂漠的な感じなんでしょうか。考えただけで恐ろしいですね。
というわけで、先週の小旅行の話は全て出し尽くしてしまいましたのでまた本日から小ネタを話そうかと思います。
本日は「越の国のはなし」です。
ではいきましょう。
新潟に来て初めて知ったことがある。
それは新潟県は3つのエリアに分かれているということ。
分けると、
①上越
②中越
③下越
と上中下で新潟を3分割した呼び方があるようだ。
上越と言えば、上越市や糸魚川市があるエリアの事。
中越は長岡市や柏崎市のこと。
下越は新潟市や村上市のことを指す。
地図で確認するとよくわかるのだが、どこか少し違和感が無いだろうか?
普通の日本地図で見ると、上越は新潟県の下の方にあって下越は上の方にあるではないか。
一体どうしてこうなったのだろうか。
そう疑問に思われる方もいるだろう。
この理由というのはズバリ、かつて天皇がいた都に近い方から上・中・下と呼んでいるのである。
なので、新潟県のエリア分けはこのように少し現代とはアンマッチな事になっているのだ。
因みにこれは旧国名でも同じ現象が起きている。
例えば上野国と下野国。そして、上総国と下総国。この4国が上記の理由から日本地図では上下逆だが京都に近い順でこのようになっているパターンの例である。
また、最初に紹介した新潟県の旧国名でも同じように旧国名が決められている。
新潟県の旧国名は越後国である。
ではお隣の国はというと、富山県は越中国。
お!これもこのパターンだな!というのがわかるだろう。
加賀国を挟んで福井県はそう、越前国である。
このパターンも上・中・下ではないが前・中・後という名称がついている。
これは、元々は福井県、石川県の一部、富山県、新潟県の一体を「越の国」と呼んでいたことからこういった名称がついた。
越の国の前側にあるから、越前国。
真ん中にあるから、越中国。
後側にあるから、越後国。
と、こういった感じで旧国名がついていったのである。
実は規則があったのである。
日本全国にもこういった事例がまだまだあることは間違いないと思われるので自分の住んでいる近くの地名に「上」とか「下」とか入っていたら少しこの話に当てはめて欲しい。
というわけで今回は終了。
さて、私自身すごく勉強になるお話でした。
やっぱり地名って面白いですね。
地名LOVE!
今週終われば連休!!
明日からまた頑張りましょう!!!
それではまた!
どうも〜
お疲れです〜
もう8月に入って数日経ってしまったというから驚きです。
新潟では本日から3日間、「新潟まつり」という大規模なお祭りを開催しておりまして街中には大民謡流しの為に浴衣を着た人々で賑わっていました。
その光景を横目に私はスタスタと帰路へ。
インドア引きこもりの私には全く関係のないお話です。
さて、本日は先週行った長野小旅行の際の歴史探訪の続きを書こうと思います。
今回のご紹介はほぼ真田関連です。
松代をこれでもか、と満喫した私ですがいよいよファイナルスポットへ。
松代藩と真田氏の関わりは前回説明の通りですが、その真田氏にまつわる資料や所縁の品を展示してあるのが「真田宝物館」です。
ここには様々な展示物があるのですが、やはり昨年の真田丸フィーバーが関係してか松代藩に移ってからの真田氏のことだけではなく、真田隆幸・真田昌幸・真田信之・真田幸村の三代に亘る紹介や説明がよくわかるようになっていました。
「あ!この肖像画見たことある!」という肖像画の原本がこの宝物館所蔵のものだったり、真田昌幸や真田幸村の書状などが多数展示されており個人的にテンションが上がりました。
写真は訳の部分を撮っています。
後でちゃんと資料の内容を見ようと写真に納めたりしてました。
この真田宝物館も非常に楽しめました。
内装も綺麗で、良いところです。
因みに、松代スタンプラリーなるものを行い、全部コンプリートしました。
コンプリートの賞品は真田シールでした。欲しい人はご連絡下さい 笑
というわけで丁度閉館の5時くらいに周り終わり、松代の旅は終了。
その日は長野に一泊しましたが宿泊したホテルがクソすぎて悲しかったです。
そして翌、7月30日(日)は長野からしなの鉄道で上田駅へ。
上田と言えばまたまた「真田」。一度は行きたい場所でしたので今回行けて良かったです。
まずは、というかここは上田城跡の上田公園にしか観光スポットがほぼないのでとにかく上田城跡へ。
意外と駅から遠くて疲れました。
この写真が上田城本丸東虎口の櫓門です。
写真右側のキッズ達が触っているのが「真田石」というとにかく大きい石です。
当時は石の大きさが権力の大きさを示すものだったらしいです。
この石を真田信之が松代へ移封される際に持っていこうとしたらしいのですが、結局持って行けなくてここにずっと鎮座しているようです。
少し遠くから写した写真です。
北櫓と南櫓も左右に配置されています。
のや櫓門をくぐるとすぐ目の前に「真田神社」が。
今回の旅は多くの神社やお寺に行って祈願をしてきましたがここでもお祈りしました。
この真田神社本殿の横道に少し入ると真田の井戸と呼ばれる場外へと繋がっていると噂の井戸もありました。
上田城跡は城址であり、櫓門など以外には建造物がありません。もちろん、天守閣もございません。
ですので、本丸跡は今はだだっ広い何もないスペースが広がっているだけです。
ですので、城だからといって期待していくとガッカリするかもしれませんね。
しかし、堀や土塁の遺構などを見ることが出来ますのでぜひ来て見てみて下さい。
その後は、上田市立博物館へ。
こちらの博物館もやはり真田氏の資料なども多く展示されております。
また、江戸時代に入って真田氏が松代へ移封となった後にこの土地を納めた仙石氏や松平氏の展示も見ることができます。
この博物館も非常に楽しめました。
その後、特別企画展「400年の時を経て甦る上田城」というものを上田城公園の入り口付近で行なっていたので入りました。
ここでは大河ドラマで使用したグッズや演者のサインなどがありました。
草刈正雄さんのサインも見れました。
前日と当日に真田氏の博物館へ行ったばかりで真田氏の歴史はお腹いっぱいでしたがまた真田氏の歴史を少し拝見しました。
日曜だっとこともあり、人も多くうるさいキッズどもが多くてなかなか見たい展示も見れないような状態で残念でした。
こんなところで上田城散策は終了し家路に着こうと駅へ向かいます。
すると、上田藩主邸跡(現在は跡地に県立上田高校が建っています)には藩主邸の表門が残っておりましたのでこれも見て来ました。
こんな立派な門がある高校に通えるなんていいですよね。
藩主邸跡の表門を見た後に上田駅へ。
そういえば真田幸村の銅像が駅前にあるはずなんだけどなぁ、と思いキョロキョロ辺りを見回しますがなかなか見つかりません。
しかし、根気よく探すと発見しづらい謎の広場みたいなところに銅像を発見!
(画像が横向きで申し訳ないです)
なんでこんなところに建てたかは不明です。
さて今回の旅はこれにて終了です。
いやー、長野旅楽しかったです。
特に松代が!!!
ぜひ楽しい楽しい松代をして見て下さい。
ではまた!
やっほー☆
ワタナベだよー☆
というわけで本日も先週末に旅したことを歴史探訪としてご紹介いたします。
本日紹介するのは7/28(土).29(日)の模様をお送りします。
旅先は信濃国、そう長野県です。
28日(土)は長野市の「松代」へ行きました。
早朝、金沢を少しブラブラした後直ぐに新幹線で長野駅へ!
長野駅から路線バスでいざ松代へ。
松代は正確には長野市松城町という地名のことで、1966年に元々長野県埴科郡松城町だったのを長野市を含むその他の市町村と合併し今の長野市松城町という地名になりました。
兎に角ここ松代は、江戸時代の「松代藩」だったことに関する観光を推していまして、この地区全体が松代藩時代の街並みなの景観を維持・保存しているため本当に街並みが綺麗でした。
中でも、松代藩といえば昨年大河ドラマでも話題になった「真田丸」の“真田家”所縁の藩です。
松代藩の初代藩主が真田昌幸の長男であり、あの真田信繁(幸村)の兄であった「真田信之」なのです。
以降、松代藩は真田氏が代々藩主となって納めた地域でしたので昨年の大河ブームも相まってこれでもかというほど真田推しです。
「真田丸」を全話観ていた私にとっては非常に喜ばしいことで本当に楽しめました。
また、後述しますが私のこの松代の旅の本来の目的は太平洋戦争末期に計画されていた「松代大本営」の跡を見に行くことでした。
実は江戸時代だけでなく、近代でもこの松代は歴史的にも注目されていた地域だったのです。
さらに、ここ松代は幕末にかの有名な「佐久間象山」出生の地です。
佐久間は松代藩で学び、最終的に幕末に日本を動かす火種を作ったということですね。
そういうこともあり、松代では
・戦国時代
・江戸時代
・幕末
・太平洋戦争
という幅広い歴史を体感することができる日本でも屈指のスーパー歴史地域で、私のような歴史好きには超興奮のスポットでした。
前置きが長くなりすぎましたが少しずつご紹介していきます。
まず、最初に訪れたのは松代藩時代の藩士の旧住宅跡であります「旧横田家住宅」です。
1800年前半に建築された中級武士の住宅です。
当時の武士の生活を、垣間見ることができました。中級武士というと現代でいう県庁職員と言ったところでありましょうか。
質素の中にも良い暮らしをしている、という感じが見受けられました。
敷地も相当広く、庭園と菜園があり自ら野菜などを栽培していたことが分かりました。
そして、続いてはそこから徒歩で五分程の場所にある「山寺常山邸」です。
山寺常山は儒者・鎌原桐山、維新の先覚者・佐久間象山とともに“松代三山”と呼ばれ、寺社奉行、郡奉行を務めた方であり、この山寺常山の邸宅を今でも見ることができました。
元々ここには武家屋敷が建築されていましたが主屋は大正時代までにほとんど失われており、現在は復元された小規模な建築物があります。
庭園は非常に綺麗で池には無数の鯉が優雅に泳いでおりました。
さて、綺麗な情景で目の保養を行なった後は戦中の惨劇を見るために「松代大本営跡」へ向かいました。
松代大本営を簡単に説明しますと、太平洋戦争末期に本土決戦に備えて当時東京にあった中枢の大本営を松代に移すという計画のもと松代の山々の地下や麓に大本営を建設するというものでした。
その大本営を建設した遺構を見ることができます。
まず、「もうひとつの歴史館」という歴史館?へ行きました。
ここでここの歴史館のスタッフの方にこの松代大本営の概略や、建設工事の事などについて一通り説明してもらいました。
私1人の為に説明して下さり、良く概要が分かり大変満足しました。
その後、すぐ近くの象山という山に掘られた大本営の遺構である地下壕にいきました。
ヘルメットをかぶりいざ地下壕内部へ。
夏だというのに中は物凄く寒かったです・・・。
気分はシベリア。
現在見学出来るのは入り口から500mまでのところまでで、内部は掘削の跡が生々しく残っていました。
地下壕はこの象山という山以外にも他2つの山でも掘られていたのですが僅か9ヶ月で全長10kmを掘り進めたというのだから驚きです。
労働者の苦労が暗闇から伝わってきました。
主に朝鮮からの労働者ということで、殉職された方も多いと聞きましたので亡くなった労働者へ祈りを捧げつつ地下壕を一通り回ってきました。
いやー、すごい場所だなぁと。
ここは本当にオススメです。
悲惨な歴史の遺構を見学した後は「象山記念館」という佐久間象山の記念館へ行きました。特に写真はありませんが佐久間象山所縁の品などが多数展示されてました。
物凄く頭の良い方だったのが分かりましたね。
そして、私の旅はまだまた終わりません。
その後結構歩いて、「旧前島家住宅」へ。
松代藩士の前島氏の住宅で、1759年に建築された武家屋敷であり松代で最古の武家屋敷だそうです。
この旧住宅も凄く落ち着くスポットで、まるで禅寺へ来たような心の安らぎを得ることが出来ました。
旧前島家住宅は他の松代の観光スポットから離れていたので歩き疲れましたが、ようやく松代の中心地へと歩みを進めます。
続いてまたしても旧住宅シリーズ。
「旧樋口家住宅」です。
松代藩士の樋口氏は前述した横田氏や前島氏よりも家格は上で、藩の要職を歴任した家系でした。
つまりは上級武士であり現在でいうところのキャリア官僚のようなものでしょうか。
やはり、中級武士の武家屋敷と比べると違いは顕著でした。
全てが少しずつグレードアップしているのが良く分かります。
これは皆さんも実際に行って見てみないと分からないと思いますので是非実際に行って比べてみてください。
その後はすぐ隣の「旧白井家表門」を見ました。
立派な門でした。以上。
そして、遂にメイン観光スポットへと駒を進めます。
まずは「文武学校」です。
これは松代藩八代藩主・真田幸貫が水戸の弘道館にならって藩学校の設置を計画し、九代の真田幸教の時に設置された藩校です。
ここでは、教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などが配置されており見ることができました。
ここには休日ということもあり、沢山の観光客で賑わっておりました。
小学生くらいの子供たちが様々な体験型の学習?的なことをボランティアスタッフの方々と行なっており、当時の藩校の教育を現代の子供たちが体験するという非常に良い光景を見ることができました。
こういう当時の学びを体験出来るのはいいですよね。
そして、続いて「真田邸」へ。
ここ真田邸は九代藩主・幸教が、義母・貞松院の住まいとして1864年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていたところでした。
もう本当にここは素晴らしいところで、この御殿は兎に角細部まで綺麗な装飾などがあって「ここに住んでみたい!」という感情を出さずにはいられなかったですね。
庭園は物凄く綺麗で、やはり他の藩士の旧住宅の庭園とは比べものにならないほど立派なもので、「これが藩主の御殿か!」と心底実感するものでした。
いやー、こんなに素晴らしい邸宅なら一生松代に住んでもいいと思いましたね。
松代の旅も終盤戦です。
続いては「松代城跡」に行きました。
松代城は武田信玄と上杉謙信が川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれています。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。
江戸時代にはここ松代城を中心に松代藩の城下町が発展して行きました。
2004年ごろにこの門を始め復元され、今では天守などの建造物は無いものの立派に整備され復元されております。
さて、松代の旅はまだ終わらないのですが少し長くなってしまったので一旦区切ります。
この後行った「真田宝物館」と29日(日)に行った上田は共に真田氏の歴史についてなので関連するところがありますので後日改めて記事を書きます。
というわけで松代の観光について紹介させていただきました。
本当にいいところです!
また行きたい!!
あの素晴らしい街並みや、整備された水路などは必見です!
ぜひ行った方がいいです。
それでは、また!
どうも、こんばんわ。
今週は本当にアクティブにいろんなところを旅して回りました。
久しぶりに楽しかったです。
そんな本日は「長野・金沢編」ということで書き記しておこうと思います。
まずは、「牛に引かれて善光寺詣り」で御馴染みの善光寺。
10年前に行った時はものすごい建物も大きくて広大な敷地だったような気がしたのですが、確かに大きなお寺でしたがそこまでの印象は無かったですね。
それでも矢張り全国に名を馳せている善光寺。物凄く趣のあるスポットでした。
※以下にアップロードする画像の向きが横になっていたり見辛いかもしれませんが御容赦下さい・・・。
まずは参道です。
非常に賑やかで善光寺土産や信州名物が売っている売店が立ち並んでいました。
そして善光寺の山門。
壮大で優美な山門に圧倒されました。
山門を潜るとそこにはまた一際大きな本堂が待ち構えていました。
本堂の内部はそれはそれは広くて感動しました。
そして何と言っても本堂の奥での「お戒壇巡り」は良い体験でした。
階段を降りて戒壇を進みます。
そこは一寸の光も入ってこない、まさに「闇」。
右の壁を伝って恐る恐る前へ。
これ複数人で行ったら結構盛り上がるんだろうなぁと思いますが1人で進むと本当に怖いです。
お化け屋敷を進んでいるような恐怖の感覚に襲われます。ビビリな私は本当に少しずつ少しずつ前へ前へと歩みを進めました。
暗闇の終盤にある錠前に触ることができれば極楽浄土に行けるようです。
暗すぎて果たして錠前なのか分かりませんが恐らく触れたのできっと極楽浄土へ私も行けるのでしょう。やった!
是非また今度行った時に巡ってみたいです。
そして本堂でご参拝したあとに少し離れた所にある資料館へ。
資料館兼忠霊塔となっています。
資料館では善光寺所有の貴重な展示品が見れました。
スーパー楽しかったです。
そんな感じで信州善光寺詣りは終了。
矢張り日本屈指の名刹は一味も二味も違いました。
そして、その後訳あって金沢へ移動。
同期と久しぶりの再会をして楽しかったです。
金沢に一泊して、朝少しだけ金沢を歩きました。
金沢はもう数回来てますし、観光スポットがあんまり無いんですよね。
そういうこともあってとりあえず行ったことが無かった「尾山神社」へ行きました。
ここは加賀藩の藩祖である前田利家を主祭神として祀っている神社で、1873年創建と意外と新しい神社です。
ここは何と言っても「神門」が素晴らしいのです。
画像が横を向いていたり暗かったりで申し訳ないのですが、上部にはなんとステンドグラスがはめ込まれています。
こんな神社初めて見ました。
あるんですね、こんなところが。
兎に角美しかったです。
前田利家公の像であったり兜の復元だったりと飽きのこない素晴らしい神社でした。
ここは訪れる価値大有りですね。
そんなこんなで朝早くに金沢を発ってもう一度信州へと旅路を急ぐのでした。
グッバイ金沢!
次はいつこれるだろうか・・・。
というわけで本日はとりあえず終了。
明日以降に第2弾の信州松代・上田編をお送りする予定です。
それではまた!
どうもみなさんこんばんわ!
本日は久しぶりに幻の「歴史探訪」の復活です!
超インドア派の私にとってなかなかアクティブに外出したりすることがないのでレアなコーナー!!
というわけで本日は出張の合間に少しだけ観光してきました。
もちろん、ちゃんと出張の目的を果たして、上司の承認を得ていますので悪しからず!
本日は新潟を午前中に出て、昼過ぎに第一の目的地長野駅に。
まぁ特に長野では観光はしてませんが、約10年ぶりに長野市に訪れました。
小学生のころミニバスの遠征で1度長野市に訪れたことはありましたがそれ以来ご無沙汰でした。
でも正直小学生の記憶なのでほぼほぼ覚えてませんので初めて来たと言ってもいいくらいですかね。
長野で目的を果たして次は松本駅へ。
松本市は本当に初めてで、行きたかったところでもあったので今回行けて良かったです。
長野駅から特急列車で松本駅に着き、約1時間の時間の合間でいざ観光。
目指すは松本城!
松本駅から歩いて10分ちょっとで松本城へ到着です。
美しい・・・。
さすが国宝・松本城、、、!
圧倒的な存在感に脱帽です。
黒門という門を潜って、
いざ天守へ!
少し暗めの写真で分かりにくいかもしれませんが正面もなかなかの迫力。
もっと近くに行くと・・・
いやー、近くに行けば今度はカッコよく見えました。
石垣もキレイに積まれており、石落としや狭間も規則正しく配置されて流石名城だと心底思いました。
平日にもかかわらずなかなかの観光客。
天守内部は上へ上へと登る階段が急で狭いこともあり大混雑。
なかなか苦労して最上部へ。
松本市内が一望できました。
ただ、曇ってたこともありアルプスの山々が見れなかったことが残念です。
1時間しか猶予がなかったので足早に松本城を出て、同敷地内にある松本市博物館へ。
松本市の歴史が少しわかったようなきがしました。
中でも松本市には「道祖神」が多く設置されているとのことでした。
大学では民俗学を学んでいたこともありなかなか興味深いお話でした。
と、足早に博物館も見て回り丁度1時間くらいで松本城見物は終了し、本来の目的に戻ったのでした。
本来なら松本で宿泊したかったのですが、学会か何かのイベントがありまた、長野へ戻って長野で宿泊。
なかなか疲れた?日でしたが北陸での良い思い出がまた一つ増えました。
さて、明日もアクティブに出張だ!
それではまた!
どうも、こんばんワイルド・ラプター!
7月ももう後半、1ヶ月が早いですね〜。
そんな本日も更新しましょう。
本日も歴史ではなく、文化のカテゴリーから1つ。
うーん、歴史と言えば歴史のカテゴリーなのかもしれませんがこれは文化でしょう。
というわけで本日は題して
「お中元のはなし」
です。
それではいきましょう。
この季節になると、「お中元」という言葉をあちらこちらで耳にし、目にする。
昔は、大人になると贈り物をしないといけないんだなぁ大変だなぁ、と思っていたが実際に社会人になると非常にお中元というものが身近に感じられる。
私個人では別にお中元を贈ったり貰ったりすることはないのだが、やはり会社単位でそういうやりとりもあるので恩恵を受けることもある。
他にも業務に関連してもお中元について色々あるので、お中元というものを社会人になって意識せざるを得なくなった。
さて、本日はそんなお中元について知らなければいけない!と思い色々と調べてみた。
やはり、まずはWikipedia先輩に聞いてみる。
中元(ちゅうげん)は、道教に由来する年中行事で、三元の1つ。もともと旧暦の7月15日に行われていたが、現代の日本では新暦の7月15日または8月15日に行われる。この時期に、世話になった人々に贈り物をする習慣を特にお中元とも呼ぶ。
(Wikipediaより引用)
これだけだとよく分からない。
供え物をやりとりする
本来、「中元」とは7月15日のことで、古く中国では上元(1月15日)、下元(10月15日)と共に重要な祭日でした。これは道教の思想に由来します。この3つの元はそれぞれ3人の天神様の誕生日で、人々はお祝いにお供え物をしました。
一方日本には仏教の「盂蘭盆会〔うらぼんえ〕」、つまり先祖供養の行事「盆」があります。この盆には、迎え火や盆踊り、送り火などの様々な儀式があり、その内の1つに「盆礼」があります。これは親や親戚、近所の人々の間で霊前に供える品物をやりとりする習慣でした。盆礼は一部の地域では生御霊〔イキミタマ〕とも呼ばれ、死者を供養すると共に、生きた魂も供養する考え方の下、物品を取り交わしたようです。
これが中国の中元の供え物と結びつき、現在のように盆の時期に贈り物のやりとりをするようになりました。この慣習は室町時代の公家の間で広まり、江戸時代になると庶民の間でも定着しました。
(http://iroha-japan.net/iroha/B06_custom/05_chugen.htmlより引用)
起源が分かりやすいサイトから引用させていただいた。
まず、「三元」という年中行事があり「上元」「中元」「下元」がありその中の「中元」から来ているという。
元々はお供物の物品のやりとりをしていたことから始まったらしい。
また、詳しく調べるも三元は道教の教えでもあり、道教の神で、天官、地官、水官の三帝のことを三官大帝といい、その中の地官の恩恵にあやかって罪や穢れを贖うべく、近所で贈り物をしあっていた習慣ではないかとも考えられている。
道教の年中行事ということで中元は中国を始め、台湾でも様々なイベントをするらしい。
その中でも日本の贈り物を贈り合うという文化は日本独自の独特の文化なのであろう。
意識していないと日本由来の文化かと思ってしまいがちだが、実は中国が起源ということは意外な事実だろう。
因みに贈り物は江戸時代はうどんやそうめんなどが主流だったが、現代では多種多様なものが贈られている。人気なものは海産物や食肉加工品、酒類などで、商品券なども多く贈られている。
まぁ、でも相手に感謝の気持ちが伝われば物品自体はなんでもいいのだろうとは思う。
私も今後お中元を贈ることがあるのだろうか、数十年後には廃れていたりして。
結構こういった古くからの文化は現代では簡素になったり廃止されたりすることも多く、お中元の文化はこの先どうなるのだろうか。
今後のお中元の移り変わりにも注目しながら今後の社会人生活を過ごそうと思う。
ということで本日も終了です。
お中元ってなんか大人だなぁ、と思いますがもう本当に身近なものになりつつありますので私もいつまでも子供のままでは駄目ですね。
数年後にはしっかりお中元が贈れるちゃんとした社会人になろうと思います。
因みに、私はまだまだお中元募集してますので是非お贈りして下さい 笑
できれば甘いもの、スイーツであれば嬉しいです。
よろしくお願いします!!
お中元欲しい!!!
寝ます!!
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ワタナベ
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